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減算法の都合

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 リストカットを試みた人が、何度も手にためらい傷を持ったまま、生き続けているとことはよくあることだ。
 ただ、それも、本当に死んだ人から見れば、
「そんなやつには、最初から、死ぬ覚悟などなかったに違いない」
 と思っているのではないだろうか?
 だから、一回で一思いに死ねなかった人は、そのまま何度も自殺を繰り返すが、死ぬことができないというジレンマに苦しむことになるのだろう。
 だが、最初は、本当に死ぬ気だった人でも、まわりの努力によって、死を免れると、今度は死のうとは思わない人もいるようだ。
 その人たちがいうのには、
「死ぬ勇気なんて、そう何度も持てるものではない」
 という。
 この言葉の解釈は、結構難しい。
 というのは、
「確かに説得力のある言葉に聞こえるが、言い訳に聞こえなくもない」
 ということであり、言葉だけを聴いていては分かるものではなく、その人がいかに、そのセリフを喋っているか。その本気度を自分で解釈しようと思って見ない限り、分かるものではないだろう。
 とにかく、
「死ぬ時も、人は生まれた時同様、自分で選ぶことができない」
 ということであれば、自由なのは、
「生きている時だけだ」
 ということになる。
 しかし、現実社会ほど、自由にならないこともないではないか。
「努力をすれば、いずれ叶う」
「死んだ気になれば、何でもできる」
 とよく言われるが、本当にそうなのだろうか?
 皆が皆そうなら、皆、もっと真剣に生きるであろう。
 この世の楽しみがないからなのか、一人で楽しむこと以外に、人とつるむことでしか楽しみを得られずに、結局、人に迷惑を掛けてしまうというのが多くなる。
 自分では意識してもいないのに、他人に、下手をすれば、取り返しのつかない迷惑を掛けてしまうことだってないとはいえないのだ。
 それを考えると
「いつ、どこで、自分は人の恨みを買っているか分からない」
 ということであり、逆に、
「いつどこで、人に恨みを持つような目に遭うか分からない」
 というものである。
 人は、前者の、
「いつどこで、恨みを買うか分からない」
 ということは考えるが、なかなか迷惑を掛けられるということを考えないものだ。
 だから、殺意を持つと、抑えが利かないのかも知れない。
 自殺というものは、
「自分で自分を抹殺する」
 という意味で、
「相手が誰であれ、命を奪うということは、殺人と同じだ」
 という発想が、神の世界での、
「自殺を認めない」
 ということになるのであろう。
 さて、次であるが、
「病気」
 あるいは、
「不慮の事故」
 というものを考えてみよう。
 こちらも、考え方なのだろうが、普通は、
「しょうがないもの」
 という考えと、厳しいことを言えば、もちろん、本当にどうしようもないということもあるのだが、それ以外として、
「病気などというものは、いわゆる、不摂生というものが絡んでいるのであって、普段から健康に気を付けていれば、病気になることもない」
 と言えるだろうし、
「事故にしても、事故に遭わないように気を付けることはできるだろう」
 という人もいる。
 それでも、相手が、お構いなしに突っ込んできたり、巻き添えを食ってしまうということもあるわけで、一概には言えないのだ。
 それでも、ほとんどの人が、病気か事故ということになるだろう。
 特に病気の場合は、どんなに気を付けていても、普通に生活をしていれば、年齢とともに、身体のいたるところで、老化が起こり、その消耗度は、人間の力では、どうすることもできないものだ。
 だから、恒例であっても、大往生かと思えば、
「実は、病気で」
 という人も少なくはない。
 また、不慮の事故など、特に交通事故などというのは、運転手の一定数の中には、
「俺は、事故など絶対に起こさない」
 と嘯いているやつがいる。
 もちろん、自分に言い聞かせるという意味で口でわざと言っている人もいるだろうが、ほとんどは、自信過剰。というよりも、
「何かあった時の言い訳」
 でしかないのだった。
 とんでもないやつもいて、
「俺は、どんなに飲んでも酔わないので、飲酒運転しても大丈夫だが、法律で禁止されているから、運転する時は、軽くくらいしか飲まない」
 というバカがいる。
「そんな中途半端なら飲まなきゃいいんだ」
 と思うのに、そんなやつに限って、警察に捕まったり、本当に交通事故を起こしてしまったりするのだろう。
 以前、酒を呑んで運転していて、小さな子供や母親を巻き込んだ交通死亡事故が起こり、
それ以降、社会問題となったことで、罰則も厳しくなり、さらに、警察の取り締まりも激しくなってきたにも関わらず、一向に、検挙される人間の数が減るわけではなかった。
 ひょっとすると、分母は減っているのかも知れないが、実際に捕まる人の数は変わらないだけなのかも知れないが、
「一定数のバカがいる」
 ということに変わりはないのは、当たり前ということであった。
 それを思うと、
「人間というのは、いかに愚かな動物であり、同じことをいつまでも繰り返しているというもので、悪いことをいつまでも繰り返すということは、反省がないということに他ならない」
 のであろう。
「人間だけが、反省をできる動物だ」
 というはずなのに、できるくせにしようとしないというのは、ひょっとすると、
「最初から持っていないからできない」
 という他の動物の方が、実は偉いのかも知れない。
「できるのに、しようとしない」
 というのは、それだけで、
「罪である」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「この世で、不慮の事故というものはなくなるはずはない」
 ということであろうし、もっといえば、
「その中の一定数は、不慮の事故ではなく、れっきとした殺人なのだ」
 と言えるのではないだろうか?
 不慮の事故というのは、あくまでも、
「気を付けていて、それでも起こった」
 ということで、反省を伴うものでなければ、
「不慮」
 とは言えないのではないだろうか?
 それを考えると、やり切れない部分も少なくなく、それこそ、人間というのは、
「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」
 を続けている愚かな動物でしかないということになるのであろう。
 昔の特撮で聴いたことがあるセリフであるが、
「いまさらながらに、思い知らされるセリフである」
 ということであろう。
 かつての特撮番組、それがちょうど、昔の、米ソ陣営における、
「東西冷戦」
 というものがあった。
 それは、いろいろな面での、対抗であったが、基本的には、
「民主主義陣営と、社会主義陣営」
 ということであった。
 民主主義は、資本主義とも言い換えられ、社会主義は共産主義となる。
 基本的な考え方として、民主主義というものは、その決定を、
「多数決」によるもので、基本体制は、自由競争である。つまり、そこに存在するのは、選挙ということであり、基本的に、
「多数意見が優先される」
 というものだ。
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次