輪廻転生のバランス(考)
にもつながり、大阪府障碍者未亡人福祉事業協会に委託させることで、うまく雇用につなげていたのだった。
ただ、これはあくまでも、
「法の抜け道」
であり、
「こういう方法を取ることで、これは、賭博ではなく遊戯でである」
としていたのだ、
だから、刑法としては、
「賭博及び富くじに関しての罪」
ではなく、
「風俗営業法」
で間折られることになり、
「遊戯以外の行為は禁止」
ということになっているわけである。
しかし、やはり、
「遊戯をした後、景品に変え、最後に換金していることに変わりはない。本来のような目的から、つまり、
「未亡人や障害者を守る」
というところからかけ離れているのに、三店方式というのは今までのまま、
さらには、不況の時期などには、時々、
「景品交換所を襲う」
というような強盗事件も起こっていた時期があった。
その時に、本来であれば、思い切って、
「三店方式」
というものをなくすということもっ考えられたのだろうが、それができなかったというのは、
「元々始めたのが、警察だった」
ということで、
「その警察が二の足を踏んでいる」
というところが、難しいのではないだろうか?
さらにいえば、今も続いている、
「世界的なパンデミック」
が起こった時、政府も、最初は、
「わけが分からない」
ということで、闇雲な、
「人流抑制政策」
である、
「緊急事態宣言」
というものを発令し、国民を締め付けるやり方を取った。
その方法は、今の政府が行っている、
「共存」
といい、
「表ではマスクを外していい」
などという、クソバカげた政策に比べれば、よほどマシだったのだが、その時に、一般企業、つまり、生活の最低限な必需品である、医薬品や食料などの、
「コンビニ、スーパー」
や、
「薬局」
など以外は、基本的に休業(もちろん、交通機関のインフラは除く)ということにしたのだが、その時に、国や自治体が、補助金ということで、
「子供の駄賃」
くらいの保証を出すことになった。
実際には、半年以上も遅れたりして、間に合わなく、廃業に追い込まれたところもかなりあったという。
「そんなはした金、家賃の数日分しかないわ」
ということで、要請に答えず、無視して店を開けていたところもあった。
それはそうだろう。
「一日に、数百万の利益がなければ、採算が合わないところに、一か月10万円くらいの補助金でやっていけるわけはない」
というわけである。
パチンコ屋などがそうだった。
しかし、ほとんどのパチンコ屋は、休業要請に応じ、さらに、クラスターという集団感染を起こしたわけでもないのに、パチンコ屋が、開店していると、思い切り悪者扱いにされたのだ。
実際には、他の業界の店も店を占めずにやっていたところがあったのに、そこに対しては何も言わない。たぶん、
「自分たちとは縁のないお店」
ということで、何も言わなかったのだろう。
パチンコ屋のそんな営業が、いつしか社会問題となる。自治体は、
「店を閉めなければ店名を公開する」
と言われ、パチンコ屋も。
「構わない」
とばかりに営業していると、面白い現象になった。
何と、店名を公表すると、人が押し寄せたのである。しかも、全国から、
「それだけ依存症の人が多いということか。こんな巣籠生活に対して嫌気をさしているということでしょう」
ということだった。
人流抑制ということだから、当然、一般人の外出の自粛も促すことになる。街に出ても、ゴーストタウンなのだから、誰も出ることをしないだろう。
だから、いい加減に嫌気が差している人が、開店前のパチンコ屋に、長蛇の列を作っているというわけだ。
店名を公開することで、余計にパチンコ屋に人を集めているなど、完全に、
「ミイラ取りがミイラになった」
ということであろう。
それを考えると、実に滑稽だが、問題は、
「どうして、パチンコ屋だけが、集中攻撃を受けたのか?」
ということだ。
やはり、ここは、
「三店方式」
という名の下で、営利をむさぼっているのが、パチンコ業界ではないか?
という考えが、世間にあるのかも知れない。
その、
「三店方式」
を、必要悪と見るかどうかは難しいところであるが、もし、これを
「必要悪だ」
というのであれば、正直。
「歴史を勉強してから言え」
といいたい気持ちになる。
ちゃんと歴史を勉強していれば、
「何が悪くて何が正しいのか?」
ということを、自分で判断できるようになるからである。
今の人たちの中で、
「三店方式だから悪い」
といっている人は、本当に、この
「三店方式」
という意味を分かって行っているのだろうか?」
というのも、
「三店方式の何が悪いというのか?」
ということを、
「どこまで理解しているか?」
ということである。
つまり、
「パチンコというものがギャンブルであり、そのギャンブルというものをごまかすだけだけに、都合よく法律の目をかいくぐった」
としか思っていない人間は、間違いなく、一度でも、三店方式というものを、調べたりしたことはないだろう。
今はネットがあるので、
「ググってみる」
というだけで、すぐに情報が出てくるのに、それもしないのだ。
「文字を見るのが面倒だから、ビジュアルに訴えるマンガに走る」
というのと同じではないか。
確かに、マンガというのも、
「ビジュアルを使った、日本固有の文化」
である。
しかし、昔あれだけ本を読んでいた人が、いなくなり、マンガに走るというのは、そういうことであろう。
本来小説というのは、
「文字を自分で読み解き、その情景を思い浮べることで、その世界に入りこむ」
というものだったにも関わらず、その想像力を否定し、ビジュアルに走ることで、安易に芸術を得ようなどという人間も、一定数いることだろう。
だが、それは、正直、
「どこまでが、正しい」
という考え方をしてしまうと、進む道を見誤ってしまう。
決して、
「これは、善悪の問題ではない」
と言えるのではないだろうか?
ただ、人間の好き嫌いというだけで、それぞれにいい分があるわけで、それが、いわゆる、
「最近の若いもんは」
と、年寄りがいい、
「年寄りは頭が硬くて困る」
と、若者がいっているようなものである。
「いい分はそれぞれ」
しかし、それだけに、物事を見るのに、
「否定から入ってしまうくせ」
というものをつけるというのは、人間として、
「損ではないか?」
と言えるのではないだろうか?
好き嫌いはあるが、それに対して、自分の意見を持っていなければ。それは、間違った道に進むということになりはしないだろうか?
「必要悪」
というものを考えるのは、そういうところからも考える必要があると思うのだった。
そんな必要悪というものは、確かに。パチンコ業界だけではないだろう。
この、
「三店方式」
というのも、ある意味、必要悪を使って、本来の悪への、
「抑止力」
に使おうとしていたではないか。
それを、いまさらというわけではないのだろうが、
「世界的なお案でミック」
を理由に、
作品名:輪廻転生のバランス(考) 作家名:森本晃次