輪廻転生のバランス(考)
「いつも何かを考えているのだが、その考えていることが、マンネリ化しているのか、自分でも分かっていない」
ということであった。
さて、そんな中において、
「いつも、漠然としているにはしているのだろうが、絶えず何かを考えていたという思いがあったのも事実である」
もっといえば、
「今がそうだから、どこかで絶えず考えるようになったきっかけがあるはずで、それが、この鑑定団をテレビ番組でやっている頃だった」
と思うのだ。
番組は、結構、長寿に近い番組ではなかっただろうか。だが、
「そんなに毎回、よくもこんなにお宝と思われるようなものがあるよな」
と、漠然とは見ていても、頭の中にはあった。
ということは、
「自分が想像するよりも、多くの人が同じことを思っているのかも知れない」
と感じると、
「もちろんないとは思うが、やらせだったり、サクラのようなものがあったとしても、それは無理のないことだ」
と思ったとしても、仕方がないだろう。
世の中において、自分が、想像するのに、
「そんなバカなこと、ありっこないよな」
と思うようなことが、結構あるような気がしていたのだった。
それを思うと、
「何で、こんなバカげたと思うような番組を見続けてきたのか?」
ということが分かるような気がするのだった。
そんな番組が終わってから、少ししか経っていないのに、気が付けば、
「相当昔の番組だったな」
と感じるようになっていた。
そんなことを感じるのは、
「その番組が自分の中で、かなり浸透していたということを感じさせる番組だったと感じたからではないだろうか?」
と感じることだった。
それを思い出すと、
「漠然と見ているつもりでも、毎週ともなると、惰性だったことが、自分の生活に入り込んでしまうものだ」
ということを感じるようになっていた。
それも、自分の意識の中で、
「他に何も楽しみがなかったから」
ということなのか、それとも、
「楽しみがなかったというわけではなく、むしろ楽しいことが多すぎて、その中に埋もれてしまった」
という、正反対の感覚になってしまったことから来るものではないだろうか?
と考えられる時であった。
この時はどうだったのだろう?
と考えた時、今から思えばであるが、
「やはり、楽しみがなかったんだろうな?」
と思うのだった。
両極端の可能性がある時というのは、たいていは、
「どちらかというと」
と感じることの方が結構多い。
しかも、その確率がかなり高いことから、そう感じてしまうのだろう。
その考えが、自分の中で、結論として出てこないのは、
「それだけ、その両極端な発想が、あまりにも、どちらかに寄っているということを、意識として感じているからではないだろうか?」
と感じるのであった。
それを思うと、この番組のような、あとから思えば、
「こんなに面白くないと思っていた番組をこんなに毎回見ていただなんて」
という思いと。
「終わってしまって、一抹の寂しさを感じてしまうという思い」
さらには、
「終わってから、そこまで経っていないのに、気が付けば、かなり経っているようにしか思えない」
という思いが、それぞれあるということは、それ以外の時は、
「もっと、いろいろ感じているのかも知れない」
と思うのだ。
しかし、それを感じさせないということは、それだけ大きな感覚であり、意外とその感覚が似かより過ぎていて、意識として、一つの強いものとしてしか思えないのだろう。
そういう意味で、
「両極端で、正反対」
というのは、片方を忘れさせるほどのものがあるといえるのであろうか?
要するに、
「長所と短所とは裏返し」
と言われるが、それと同じように、
「長所と短所は紙一重だ」
と言われるだろう。
プロ野球選手などで、
「得意なコースの近くに弱点がある」
ということで、
「得意なコースを、ボール一つ外してなければ撃たれない」
といって、コントロールに自信がある投手は、そこを狙って投げる人がいる。
「エース級のピッチャーともなれば、それくらいのことができて当たり前だ」
ということになるだろうが、まさにその通りである。
プロ野球選手に限らず、さらにはスポーツ選手に限らず、例えば会話などにおいても同じことがいえる。営業職などは、その言葉通りに実践している人も少なくないに違いないだろう。
両極端なものであっても、お互いに違う方向を剥いていても、釣れ合いが取れているということは、往々にしてあることだろう。
天秤にしても、やじろべえにしても、中心の重心に対して、同じ距離の同じ重さのものであれば、つりあっているのだ。
同じ距離、同じ長さでなくとも、
「力の均衡」
というものさえつりあっていれば、きれいに平衡感覚が保てるのである。
それが、
「見た目に左右されない」
ということであり、それが、今の世の中には結構あるのかも知れないのだ。
そういう意味で、
「唯一無二のモノ」
という意味で、
「無双」
という言葉があるが、無双というものは、ひょっとすると、
「必ず、反対側につりあいの取れるものを隠し持っている」
と言えるのではないだろうか?
と考えれば、
「何か見えないものが、この世で躍動している」
という考えも、まったく当て嵌まらないとは言えないような気がするのであった。
「一体何を隠し持っているのか? そもそも、それは、本人が持っているもので、隠している」
と言えるものなのだろうか?
本人が持っているものかどうかということに関しては、正直何とも言えない。本人に意識がなくても、無意識の中の意識として分かっている場合もある。
それをまるで。
「後出しじゃんけん」
のように、取って付けたように、
「知らない」
ということで、隠そうとするから、ぎこちなくなるのだ。
しかし、本人としては、
「意識がなかった」
というのは、本当のことであろうから、それを、何も知らない他人が、
「そんなことはないだろう」
などといって責めたりすると、そこで仲たがいをしたり、喧嘩になってしまったりするのである。
これほど、
「無駄な喧嘩」
というのも、ないであろう。
世の中において、このようなムダなことが、どれほど多いというのだろう?
「無駄だと思っていてやってしまうこと」
というのは、案外あるもので、それこそ、
「必要悪」
というものがあるという感覚になる。
それが、前述の、
「依存症」
のところで話した感覚であったり、いわゆる、
「抑止力」
というものであったりするのではないだろうか?
抑止というのは、それこそ、前述の、
「正反対の平衡」
という意味での、やじろべえであったり、天秤のように、
「左右の均衡」
というものが保たれていると思ってもいいだろう。
しかし、もし、
「必要悪というものが見えなければ、それに超したことはない」
といってもいいだろう。
そんなことを考えていると、
「2つあることが均衡である」
という発想は、必ずないといけないとは言えないのではないだろうか?
先ほどの、
「必要悪」
作品名:輪廻転生のバランス(考) 作家名:森本晃次