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輪廻転生のバランス(考)

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 ということになり、証明も難しくはないのかも知れない。
 そんな、
「マルチバース理論」
 であったり、
「パラレルワールド」
 というものを考えていると、
「一つ以外のものは、2つであっても、無限であっても、ある意味同じ、一つ以外とは大きな差がある」
 ということに気づいた気がしたのだった。
 そういう意味で、
「唯物」
 というものを、改めて感じさせられる気がしてきたのだ。

                 唯物という考え方

 この考えは、
「観念や精神、心などの根底的なものは物質であると考え、それを重視する考え方」
 と呼ばれるものとは、少し違っているように感じるが、
「最終的には、どこかで重なるものではないか?」
 と感じるものであった。
 それは、世の中というものが、生まれ変わったりするという、
「輪廻転生」
 というものであったり、前章で書いたような、
「自然界の摂理」
 さらには、生活していると、自然に起こってくる、
「ブーム」
 というのも、定期的に繰り返しているといえるものではないだろうか。
 そういう意味で、
「一つの世界にいると、繰り返されているように思うのだが、その繰り返しと言っているわりには、すべてが円として、きれいに繋がっているような意識がないのは、ひょっとすると、これも前章の最期に書いた、パラレルワールドや、マルチバースというように、今は、一つだと思っているものが、実はいくつもの世界と接していると考えると、この繰り返しているものが、キレイな円になっていない」
 ということに繋がっているのではないか?
 と考えられるのではないかと考えるのであった。
 そういう意味で、
「世の中は、一つではない」
 ということを結論付けてしまうと、今度は、
「じゃあ、まったくの無双と言われるものの存在を、打ち消しているように思えて、その発想はあっていいのだろうか?」
 ということになってしまうのだった。
 そう考えると、少なくとも一つ言えることとして、
「唯物、つまり無双のものというものほど、価値が高い」
 という発想は、絶対にあるのではないかと思うのだった。
 だからこそ、
「鑑定」
 というものがあり、
「他にない無双のものだ」
 ということになれば、その価値はものすごく上がるのだ。
 前置きは長かったが、その問題を抱えることで、世の中は大いに変わるということだってあるだろう。
 この話がそこに結びついているということを考えた上で、入っていくことになるのだが、前置きが仰々しかったことで、いかに発想が変わっていくかが、楽しみであった。

 世の中には、
「テレビなどで、何とか鑑定団」
 などという番組をやっている。
「昔から家に残っている財宝や、お宝を公開し、その値打ちを、番組として、鑑定してもらおう」
 という番組だったのだ。
「そんな番組が、なぜウケるんだろう?」
 と考えるが、
 まず最初に、
「俺たちにそんな夢のような財宝のようなものが残っているわけもないし、もし、その人が秘蔵しているものが、本当にお宝だったら、普通に羨ましいと思うのではないだろうか?」
 と考えるであろう。
 そこで羨ましく思ったり、妬んだりする人がいるかも知れない。
 だから、普通だったら、
「羨ましい」
 と思うのだろうが、テレビを見ていると、逆を感じたいと思う自分がいるのだ。
 実際に、鑑定に出して、
「最低でも、百万円くらいじゃないか?」
 と、提供者がいうと、実際の鑑定をすると、
「三千円くらいですね」
 ということも普通によくある。
「これは確かに有名な人の作品ではあるが、ある時に、大量生産されたもので、しかも、花押も、よくある印鑑のようなものを使っているので、どれをとっても価値はない」
 と言われてしまい、それこそ、三千円というのも、
「材料費でしかない」
 というような、言ってみれば、
「バッタもの」
 と言われる程度のものの時もあるだろう。
 その時の提出者の気持ちになってみれば、どうなのだろう?
 正直、見ている方は、ほとんど皆、
「ざまあみろ」
 と思っているかも知れない。
 当事者の本人以外は、皆程度の差はあるだろうが、ほとんどが、留飲を下げているようなものではないだろうか?
 テレビの視聴者はもちろん。出演者。
 これは、鑑定をする人も思っているかも知れない。
「いや、鑑定者の方が正直思っていることであろう」
 何と言っても、鑑定をして、
「これは高価なものです。一千万円の価値はくだらないでしょう」
 と言ったとしても、だからと言って、鑑定した人が、その一割を得られるというわけでもないだろう。
 相手が、満面の笑みを浮かべ、
「ありがとうございます」
 と言われたって、複雑な気持ちで苦笑いをするしかないのだ。
 そうなると、逆に、
「がっかりした人」
 の顔を見て。-、
「ざまあみろ」
 という気分にでもならないと、自分の留飲が下がるということはないだろう。
 それを思うと、
「鑑定する人ほど、やり切れない商売もないだろう」
 と思い、
「自分の作ったもので、主役が脚光を浴びているのを、羨ましいと思ってみている人と変わりはない」
 だが、その裏方は、あくまでもクリエイターなので、それなりにプライドがあってしかるべきだ。
 鑑定者がどこまでプライドがあり、プロ意識があるかによって変わってくる。
 それを思うと、鑑定する人間のやり切れない気持ちは、誰が分かるというのであろうか?
 だから、鑑定の番組というのは、いろいろな思惑が入り組んでいて、しかも、その中心にあるのは、
「巨額の金」
 である。
 鑑定一つで、ものの価値が変わるのだ。今までは何も変わったわけではない価値が変わるということだ。
 そんな番組をよく見ていたのが、
「ブームというのを気にしていた」
 あの日下部恭三だったのだ。
 もちろん、彼は、そんな
「秘蔵」
 のようなものを持っているわけでも、
「ご先祖様が、殿様だった」
 などということでもなかった。
 だから、本来なら、
「普通の人」
 と同じように、
「こんな番組の何が面白いというだ?」
 と思う方だったのだが、彼は、ある時期を境に見るようになったのは、やはり、
「自分の中にある留飲を下げられるものがあったら何でもいい」
 と思っていたのだろう。
 その頃、誰か嫌なやつがいて、
「留飲を下げたい」
 という気持ちを持って、テレビ番組を見ていたのだ。
 だが、今となってみれば、
「どこの誰だったのか?」
 そして、
「その留飲の正体が何だったのか?」
 ということも思い出せない。
 たぶん、
「どこの誰だったのかが分かれば、どういう理由だったのか?」
 あるいは、
「どういう理由だったのかということが分かれば、どこの誰だったのか?」
 ということが分かったに違いないと思うのだった。
 今になって思えば、
「あの頃は、テレビ番組を見ていても、ハッキリと覚えているような気がしないので、見ていても、漠然として見ていたんだろうな」
 と感じるのだった。
 そういえば、いつも、何かをしながら見ていたような気がする。ただ、漠然とというよりも、