輪廻転生のバランス(考)
「院長、さらには、理事長の椅子は約束されたようなものだ」
ということで、この差というのは、
「天と地」
ほどの差だ。
ということになるかも知れない。
それを考えると、
「生まれてくる時、相手を選ぶことができない」
というだけで、
「平等ではない」
ということになるだろう。
あくまでも、人間性という意味での話ではないことは確かである。
人間は、
「生まれる時も、自由でなければ、死ぬ時にも自由がない」
という考えは、宗教的な考えである。
つまりは、
「自殺は許されない」
というのが、大方の宗教の考え方だ。
特にキリスト教などはそうだ。
これについての話は、昔の戦国時代からの話になるのだが、
「細川ガラシャ」
という人物を知っているだろうか?
彼女は、本名を、
「玉」
という。
戦国武将の細川忠興の正妻である。
彼女が嫁いだのは、鎌倉時代から、
「由緒正しき、伝統のある細川家」
に嫁いだわけだが、彼女の人生は、
「本能寺の変」
より一変することになる。
というのは、彼女の父親が、本能寺の変にて、主君である織田信長を討ったと言われる、
「明智光秀」
だからであった。
当時の摂津、大和、山城の武将は、ほとんどが、明智光秀につくということはなかった。娘が嫁いだ、細川家も、明智側に就こうとはしなかったのだ。
そのせいもあり、戦力さは最初から三倍ほどの差があり、さらに、山崎の合戦にて、一番の重要ポイントである、
「天王山」
まで取られてしまったのであれば、どうしようもないのである。
圧倒的に有利な状態で戦になれば、結果は、
「火を見るよりも明らか」
というもの、明智方の敗北になった。
そのことが玉の人生に大いなる影響を与え、細川家の領地である、
「丹後の国」
に幽閉されることになった。
それでも、忠興は妻の玉を愛していて、二人は、
「オシドリ夫婦」
だったという。
そんな中で、玉はキリスト教と出会い、
「ガラシャ」
という名前を頂けるだけの存在になったのだ。
そんな玉だったが、秀吉が天下を取ってから、秀吉に、忠興が優遇されていたこともあり、平和に暮らせていたのだった。
だが、秀吉が死に、さらに、豊臣家臣相での、いざこざが起こっている間に、家康が、台頭してくることで、時代が動きだした。
そんな忠興を、玉はしたっていたのだが、家康が、
「秀頼に従わない」
という因縁を上杉家に吹っ掛けて、それに対して、家老であった直江兼続が、家康に出した、
「直江状」
と呼ばれるものが、大義名分となって、豊臣軍が結成され、
「会津征伐」
に繋がったのだ。
直江状によって家康が会津征伐に出た間、家康に付き従った武将の、
「大阪に残している家族」
を襲撃し、家族を人質にすることで、自分の方につかせようという作戦を立てた石田三成方が、次々に武将の家族を人質にしていく中、いよいよ、細川家にも、その魔の手が迫ったのだ。
ガラシャはその時、
「自分が、夫の足かせになっては申し訳ない」
ということで、死を選ぶことにした。
しかし、キリシタンとして、洗礼まで受けている彼女は、自殺は許されない。
「どうすればいいか?」
ということを考えた時、
「配下の武将に、自分を殺させる」
という手段を用いたのだった。
確かにこれだと、
「自殺をした」
ということにはならないから、キリシタンとして、悪いことをしているわけではないといえるだろう。
だが、本当にそれでいいのだろうか?
自分が自殺できないということで、配下の人間に自分を殺させるというのは、自殺とは違うのだろうか?
自殺の定義がどうなっているのかまでは分からないが、少なくとも、人を巻き込む形になって、
「これは自殺ではない」
といってもいいのだろうか?
それを考えると、
「ガラシャの行動が本当によかったのかどうか、難しいところになるのであないか?」
ということになるのだ。
確かに、配下の人間は、人をいっぱい殺めているかも知れない。
しかしそれは、自分たちを守るために戦ってくれているわけであり、そんな彼らを、
「人殺し」
とはいえないだろう。
だからと言って、
「自殺の手伝い」
をさせてもいいのだろうか?
何も、絶対に、
「自殺というものをしなければいけなかったのか?」
というのも怪しい気がする。
確かに、三成の人質になるのは、恥ずかしいことかも知れないが、生き抜いて、
「旦那の役に立とう」
という考えが、あの時代にはなかったのだろうか?
やはり、時代背景の違いが大きなものであるということは、
「当然と言えば当然」
ということであろう。
ガラシャを殺めた人間にだって、家族もいるだろうし、まさか、上の人間に言われたからといって、その人の自殺の手伝いをさせるというのは、見方によっては、
「パワハラによって、無理強いな命令をされて、従わなければいけなくなった」
ということである。
もし、
「彼が地獄に落ちるとして、その原因を作ったのが、自分なのだ」
ということを、ガラシャは思わなかったのだろうか?
もちろん、時代背景も違えば考え方も違うだろうから、さらに、同じ時代であっても、人それぞれに考え方が違っているだろうから、今の時代でも、
「ガラシャのやったことは無理もないことで、武士の奥さんとしては、実にあっぱれなことであった」
と思う人もいるだろう。
ただ、田所としては、その思いは絶対になく、
「自己満足のために、人を巻き込んだ」
という考えしか浮かんでこないのだ。
ひどい言い方だが、
「死にたいのであれば、いくら許されていないといっても、一人で死ぬしかないだろう?」
と思うのだ。
それでも、
「自殺をしたいが、キリスト教では自殺ができないというジレンマがあるのであれば、キリスト教を最後だけ捨てて、死ねばいいのではないか?」
というのは、そんなに強引な考えなのであろうか?
そんなガラシャは、それでも、
「それくらいのことは分かっていたのではないか?」
とも思える。
いろいろなことを、発想の中から逆算していって、見つけた答えがもし、それだったのだとすれば、後からの人間が、その場にいたわけでもないのに、勝手なことを言うというのもある意味、失礼なことではないかとも思えるのだった。
もう一つの考え方として、
「死んだら生まれ変わる」
という別の発想を持っていたのではないか?
というのは、
前述の、
「死後の世界の話」
として、
「死んだら最初に、三途の川を渡って、裁かれる」
という発想があることを書いたが、それも、
「実際のことかどうか分からない。他にも考えられることはある」
ということで、彼は、一つ考えたこととして、
「死んでから、普通に、死後の世界に入り、そこで裁かれるということが大半なのだろうが、時と場合によって、魂が死後の世界に行かず、同じ瞬間に死んだ人間の身体が空いたことで、そこに入り込むことができる」
という考え方である。
作品名:輪廻転生のバランス(考) 作家名:森本晃次