輪廻転生のバランス(考)
「人間が死んだら、人間に生まれ変わるか、他のものに生まれ変わるかのどちらかだろう。稀に奇跡的に神になる人間もいるかも知れないが、数のうちではないとすれば、生まれ変わった世界の人間は、どんどん減っていくのではないだろうか?」
ということになる。
「神様が、人間を補充している」
ということかも知れないが、もう一つの考えとして、
「生まれ変わる頻度が、どんどん短くなっていけば、全体の人口がさほど、増減することはないのではないか?」
ということである。
そこまで考えると、恐ろしい考えが浮かんできた。
「普通であれば、寿命はどんどん延びているのに、感覚が短くなっていって、辻褄が合うというのはどういうことなのだろう?」
と考えてみると、その発想のすべてとして、
「人間が戦争をするのは、無意識のうちに、生まれ変わりのタイミングを合わせるかのように、殺し合いをしているからなのではないか?」
と考えるのだ。
確かに、昔は、世界各国で戦争が起こってきた。
太古の昔から、戦争のない時代はなく。
「人間は、自分たちの欲得で、自分たちで殺し合うという動物だ」
と言われてきた。
確かにそうである。動物が生き延びるために、
「自然の摂理」
によって、自然界のバランスを保っているという発想とは、まったく違ったところで、人間は行動しているのだ。
ということは、
「神には、人間の考えを抑える力はない」
ということであろう。
考えてみれば、聖書などにおいて、
「神が人間の行動を抑制した」
ということがあるであろうか?
せめて、人間が紙を崇めることで、神に従うというのは、あくまでも、人間の意志がはたらいているのだ。
だから、人間界に憂いた神が行うのは、人間の精神面に訴えることはしないではないか。
「神の力を持ってして、浄化する」
という方法しかない。
「ノアの箱舟」
「バベルの塔」
「ソドムとゴモラ」
などの話が、そのすべてを物語っている。
しかも、
「人間界の再生というものは、人間によって行われるものであり、そこに、神が関与することはない」
ということである。
もちろん、聖書というものは、
「人間が書いたもの」
ということなので、ひょっとすると、すべては、人間の都合のためであり、ここで出てくる神というのは、人間が人間を統制するための、
「道具」
として、作られているものではないだろうか?
そもそも、誰が神の存在を、あたかも正当性のあるものだと決めつけたのだろうか?
そこから、すべてが、始まっているような気がする、
そんなことを考えると。聖書にしても、他の宗教などによる、
「人間創生」
という話は、
「神が人間を作った」
ということにしなければ、まったく辻褄が合わなくなってしまうのだった。
というのも、この理屈は、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という理屈になってくるのである。
かなり以前の漫才で、
「地下鉄って、どこから入れたんでしょうね?」
というネタがあったが、これも似たような発想ではないか?
これは、まず基本的な考えとして、
「あらゆる生物は、生に始まり、死に終わる」
という発想から来ているものだった。
しかも、
「生まれながらにして、人間は自由で平等だ」
という民主主義の考え方であるが、
「果たしてどうなのだろうか?」
ということである。
「自由というのは、社会体制でどうにでもなるものだが、平等だということを言ってもいいのだろうか?」
ということである。
つまり、
「動物は、生まれてくることを選べないのだ」
ということである。
何に生まれてくるかというのが、最初から決まっていたのか、前世からの因縁がそこには含まれているのか。誰に分かるというのだろう?
それを決めるものがあるとするならば、それこそ、
「全能の神」
というものだ。
しかし、
「ギリシャ神話」
などに出てくる、
「オリンポスの12神」
と呼ばれるものは、果たしてどうだというのだ?
「人間よりも人間臭い」
とにかく、
「嫉妬の塊で、その嫉妬のために、人間社会を簡単に破壊するだけの、わがままな連中ではないか」
ということになる。
ということは、
「人間あるいは、それ以下の動植物は、すべての生物の神として君臨し、神以外はまるで奴隷という考えなのかも知れない」
と、考えると、もう一つの考えが生まれてくる。
「人間の祖というのは、元々神だったものが、人間という生物を与えられ、その祖になったのではないか?」
という考え方だ。
神が人間を奴隷としてしか見ていなかったように、人間世界の祖となった神も、人間というものを奴隷とすることで、人間社会の中でも、
「奴隷」
というものの存在が生まれてきたとしても、
「それは当たり前の発想だ」
ということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「生物にある、自然界の摂理というものを、実際にはコントロールしている存在はどこかにいるに違いない」
という考え方だった。
何しろ、
「生まれることが平等ではない」
のだからである。
人間が生まれてくるというのは、確かに平等ではない。
なぜといって、まず、
「いつ生まれてくるか?」
ということを選べない。
というのは、もう一つの不平等な理由である、
「誰から生まれてくるか?」
ということも決まっていないということである。
というのも、
「誰から生まれるかが決まっていないのだから、いつ生まれるかということも決まっていないのと同様だ」
という考えは少し違うのかも知れないが、
何と言っても、
「誰から生まれてくるか分からない」
ということは、
「誰が親になるか分からない」
ということであり、
「平等不平等」
ということをいうのであれば、
「金持ちの親から生まれるか? それとも、貧乏な親から生まれるか?」
ということであり、
「人間の幸福は、金だけで決まってくるものではない」
ということなのかも知れないが、あくまでも、人間の、
「平等不平等」
ということを考えるのであれば、それは、
「どの親から生まれてくるか?」
ということで決まってくるといえるかも知れない。
昔などは、本当に、
「生まれた瞬間から、運命が決まっていた」
と言えただろう。
特に、士農工商のような身分制度がある世の中であれば、
「百姓に生まれれば、死ぬまで百姓」
ということであった。
今の世の中でも、
「職業選択の自由」
と言われてはいるが、
果たして、それが、自由な世界なのだろうか?
いくら、
「医者になりたい」
と思ったとしても、医者になるには、大学の医学部に進まなければいけない。
伊賀生というのは、とにかく金がかかる。貧乏な家に生まれれば、学費が足りないではないか。
それを、
「奨学金がある:
と言われたとして、奨学金を貰って医者になったとしても、奨学金というのは、いずれ返さなければいけない。
だから、病院に、ある意味、
「飼い殺し」
となるだろう。
しかし、最初から金持ちの家に生まれていれば、将来は自分の家の病院を継ぐことになり、
作品名:輪廻転生のバランス(考) 作家名:森本晃次