輪廻転生のバランス(考)
頭上にある点滴の容器を見ているが、まだまだ終わりそうにもなかった。
「ポタポタ」
とゆっくり落ちる点滴のスピードが、今回のように、悩ましく遅いと感じたのは、初めてだったのだ。
「一体、何があったというのだろう?」
と思っていると、よく見ると、奥の方に、救急隊員と思しき人が、まだ数人残っているではないか。
結構広そうなこの部屋に、たくさんの患者が運び込まれている。
「ベッドはほとんどが埋まっているんだろうな」
と思ったが、よく見ると、もっとたくさんの人がいるようだった、
しかも、
「そこに、さらに、患者が運び込まれているように見えるではないあ?」
と思った。
「何があったか知らないが、これじゃあ、野戦病院ではないか?」
と感じた。
もちろん、そんなのは、テレビでくらいしか見たことがない。いや、テレビで見ているのとは、比較にならないくらいのものだ。
テレビで見るものは、角度を変えたり、喧騒とした雰囲気によって、作り出される臨場感だ。
しかし、実際の場面では、見ているのは、自分しかいないし、治療現場を真後ろから見ているわけでもない。声も、収音マイクで拾っているわけでもないし、後から編集した場面でもない。
だから、実際の臨場感が、テレビとは違う。しかし、リアルな臨場感は、それだけで、映像とは比較にならないものがあり、実際のこの状況は、映像作品としては、放送が難しいところもあるのではないかと思えるのだった。
というのも、
「映像作品には、放映できないものがある。リアルな傷口、視聴者にショックを与える、血まみれのシーン。もちろん、殺人事件や、毒を盛られて苦しむシーンなどは、ミステリーではつきものなのだが、あくまでも、ミステリーの中での、放映できる範囲というもので放映している」
と言えるんおではないか。
しかし、そうではない、医療現場の臨場感に、実際の被害状況や、それによる傷口、リアルな治療風景を乗せるのは、実際の起こりえることとして、同じフィクションであっても、視聴者に与える印象がかなり違う。
だから、臨場感の必要な、救急救命などのドラマは、シーンではなく、
「実際のリアルさを見せない」
かのようなテクニックに、
「いかに、臨場感だけを与えるか?」
ということが問題になってくる。
それを思うと、これらのシーンがどれほど難しいのかということは分かるというものではないだろうか?
だから、最初このシーンを見た時、
「俺は幻覚を見ているんだろうか?」
それとも、
「ドラマを見せられているのだろうか?」
と考えた。
厳格や夢であれば、自分の意思で見ているものであって、ドラマであれば、誰かが作ったものを見ているのだから、客観的な感覚にさせられていると思ったのだ。
そうなると、この臨場感を考えれば、
「ドラマというより、まだ幻想や夢だと言われた方が、さらにリアル感が増してくるのではないか?」
と感じたのだ。
しかし、夢や幻想ではないようだった。
というのは、最初に感じたのが、臭いだったからだ。
もちろん、この臭いが、最初から、
「ドラマにはなかった一番の違いだ」
ということは、自分でも分かっているつもりだった。
「こんな、状態を、どう考えればいいというのか?」
と考えた時に、まず感じたのは、
「この臨場感はウソではない」
と思ったのだ。
それが、臭いに寄るものだと感じた時、
「元々病院というと、その臭いは、薬品の臭いだけだ」
と思っていたところに、
「まるで鉄分を含んだかのような、歪な臭いが混じっている」
と感じた時、それが、
「人間の身体から出る体液の臭いだ」
と感じたのだ。
汗の臭いであったり、精液の臭い。そのどちらも、身体お外に出てしまうと、最初に感じた臭いとは、まったく違うものに変化している。そして、それが、
「血液も同じだ」
と考えると、血液というものに、
「凝固作用がある」
ということを思い出した。
血友病であれば別だが、普通は身体から出血した場合、その血を止めるための人間の本能がはたらき、
「血を凝固する」
ということを、無意識に行っている。
だから、出血してから、凝固が始まり、最後には、かさぶたができるというわけであった。
だが、凝固するまでに、血液は、身体から出た瞬間、そして凝固が始まるまでの一瞬、まだ噴き出している場合もあるだろうが、それだけ、凝固に間に合わないくらいの血が噴き出していれば、
「出血多量のショック死」
ということになる。
特に、急所を一撃の場合は、
「出血多量の前に即死する」
もではないかと思うのだが、そのあたりは鑑識の人の、鑑定によるのだろう。
実際に、死に至ってしまうまでが、一瞬の場合もある。刺殺の場合は、その死が即死であれば、
「死んだ後も、血液が流れ出してしまうまで、流れ出る血は、臭いやその性質は同じなのだろうか?」
ということを考える。
田所の考えとしては、
「同じではないだろうか?」
と考えるのだ。
その理由というのは、
「本当に死んでしまうと、血液は流れ出ないのではないか?」
と思うのであって、
「まだ、血が流れているのであれば、心臓は止まっていて、意識もないのかも知れないが、血が流れ出るために必要な、細胞や機能は、流れ出るまで、死んではいないのではないだろうか?」
と考えるのであった。
その理屈が、正しかろうが、間違っていようが、実際に死んでしまうことに変わりなく、「本当に死んだかどうか、死後の世界では重要なのかも知れない」
と感じるのだった。
「死んだ人間が、どこに行くか?」
というのは、宗教によって、考え方が違うが、大方似ているところがあるのも、面白いというものだ。
死んだ人間は、まず、
「死後の世界」
として、行けるいくつかのパターンを審査されるところがあるという。
それが三途の川の向こう側であることは分かっていて、渡し船で渡った後、日本人が一般的に考えているような、
「天国か地獄か?」
というのは、少しおかしいと思えるのだ。
「天国というところは、神様や仏様が住むところで、よほどの徳を積んだ人間でないといくことができない」
つまり、普通に死んだ人間は、また人間に生まれ変わるための準備をする間、行くところが、いわゆる、一般に言われる天国というところである。
しかし、本当の天国のようなところではなく、まったく想像はつかないことから、
「ひょっとすると、この世と同じような世界ではないのか?」
と考え、違うとすれば、
「神になるような人間、あるいは、地獄に落ちるような人間はいない世界だ」
ということになるだろう。
それは当たり前のことで、だからこそ、
「死後の与えられた世界」
ということなのだ。
そして、彼らは、将来、
「人間に生まれ変わる」
ということが約束されているということであった。
地獄に落ちる人間も、当然一定数いるだろう。
地獄に落ちると、生まれ変われるものは、人間以外ということになる」
ただ、そう考えると、不思議な発想が生まれてくるのではないだろうか?
というのは、
作品名:輪廻転生のバランス(考) 作家名:森本晃次