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怪しい色彩

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「身体と気持ちは別なんだ」
 と感じるようになったのだが、そのせいなのか、身体がムズムズしてくることがあった。
 普通なら、恥ずかしくて買うことのない本であったりを、恥ずかしいという気持ちがありながら、本屋の前を行ったり来たりしたものだった。
 だが、ふと自分の行動を顧みると、
「中学生にしか見えない」
 という思いに至るのだった。
 それだけ、
「自分を客観的に見ることができるんだ」
 というものであったせいもあって、そこにいるのが、どうしても自分ではないようにしか見えてこないのだった。
 というのも、そのことをなぜなのかと考えていると、
「俺が中学の頃、そんな経験をしたことがなかったからだろうな」
 という思いであった。
 あの当時なら、きっと、本屋の前でウロウロしていたとして、その姿を想像すると、そこには、ウロウロしている自分の姿が重なって見えるはずなので、
「これが俺の本当の今の気持ちなんだ」
 ということが分かるはずだった。
 しかし、中学時代は、
「そんな恥ずかしいこと、できっこない」
 と思い、思春期は、自分の思いを押し殺し、考えていることすら、自分の考えではないという気持ちで、押し殺す感覚だったのではないだろうか?
 だから、まわりの友達が、群れをなして楽しんでいるのを冷めた目で、
「何が楽しいんだ」
 と思っていたのだが、それは、自分の正当性を表すことに終始するような気持ちになると、今度は、
「こんな団体と同じだと思われるのも嫌だ」
 と感じるのだろう。
 そう思うと、
「大人になってから、子供の頃に、しておかなければいけないと思うことを、相当逃してしまったのではないだろうか?」
 と思うようになったのだ。
 というのも、
「確かに、中学時代に、皆が見ていた、エッチな本を、俺一人カッコつけて、そんな本なんか見たくもない」
 とでもいうかのように無視するかのような態度でいると、
「見逃がしてきたことが、かなりあったに違いない」
 と思うのだった。
 ただ、今後悔しても、遅すぎる。
「だったら、今から、遅いと分かっていても、やればいいじゃないか?」
 とも思うのだ。
 だから、大学を卒業してから、友達を変につくると、
「彼らの手前恥ずかしい」
 と思うことを思えば、
「一人で、やりたいことをやる」
 と考えた方が、気も楽であるし、それ以上に、
「できないことや、何かをするのに遅いという余計な考えをしなくても住むのかも知れない」
 と感じるようになった。
 だから、風俗デビューも、自分一人でであった。
 普通なら、学生時代に、
「先輩が連れていってくれる」
 というのが、普通のような気がするが、南部の場合は、
「一念発起」
 だったのだ。
 何も、
「誰に気兼ねなどする必要がない」
 という思いと、
「こっちの方が、格好いいではないか?」
 という思いとの2つがあるのだった。
「人間には、羞恥心というものがある」
 ということであるが、その時の南部は、
「自分には、羞恥心なんてない」
 と思っていた。
 羞恥心というのは、
「恥ずかしい」
 と思うことで、思いとどまるための過程をいうのであって、彼の場合は、
「恥ずかしい」
 と思っても、思いとどまることはなく、
「その先を見てみたい」
 という感覚になるのだという。
 本来であれば、
「恥ずかしさというものが、我慢させる原動力になるから、羞恥心なのであって、その羞恥心が、
「我慢はするが、なぜ我慢しなければいけないのか? 我慢することで、自分がどこまで自分のことを分かるというのか?」
 ということを考えると、
「我慢だけが、正義ではない」
 と思えるのだった。
「先を見たい」
 という思いが、羞恥心という考え方からすれば、
「戒め」
 として、自分を諫めることに繋がっているだとすると、
「何も我慢をする必要などないのではないか?」
 と思うと、とにかく、
「恥ずかしいからやめなさいという言葉の、恥ずかしさ」
 というものが何なのか?
 それを考えさせられるのだ。
「何でもやりたいことをやってみればいいんだ」
 ということであった。
 ただ、それでも、風俗に行くことだけには、南部には、
「自分なりのこだわり」
 というものがあったのだ。
 それは、自分が感じたことではなく、人から言われたことに対して考えた時、
「ああ、その通りではないか?」
 と感じたことであった。
 それが、いわゆる、
「賢者モード」
 というものであり、
「男は、一度達すると、次の欲情までに時間が掛かる」
 と言われているものであり、よく昔のドラマなどで、
「ベッドシーンがあったりすると、男と女が達した瞬間、女は、男にしがみつくが、男の方は、冷めてしまって、タバコに火をつけて、放心状態になりながら、そのタバコを咥えながら、ただ、天井を見つめているというシーンを思い浮べるだろう。
 何とも男は冷めた態度であるが、それこそが、いわゆる、
「賢者モード」
 というものであり、男は、そこで、我に返るというべきか。
 それだけに、精神的にも上の空になってしまう。
 その男の習性を分かっているオンナであればいいが、それを知らないと、
「この人何よ」
 ということになってしまう。
 確かに男が賢者モードになってしまうと、すぐには立ち直れない。そこが、男と女の一番の違いだと言われている。
 それでも、性欲の強さでいけば、男の方が強いのか、もちろん個人差はあるだろうが、個人差の問題以上に、この賢者モードと呼ばれるものは、奥が深いものなbのかも知れない。
 そんなことを考えていると、風俗で最近では、あまりガツガツした男がいないと言われるのも、分からないものでもないだろう。
 昔だったら、
「性風俗があるから、犯罪が減る」
 だとか、逆に、
「性風俗のせいで、風俗嬢が狙われる」
 などというのがあり、その理由が、
「性欲にある」
 と言われているが、どうなのだろう?
 最近、思うこととしては、意外と、
「草食系男子」
 などと言われて、性欲に走るという人が少ないように感じた。
 以前であれば、男も女も、
「結婚適齢期」
 というものがあり、その年齢くらいになると、本人たちの意思とは別に、
「そろそろ結婚しないといけない」
 であったり、
「結婚しないと、できなくなる」
 などという意識が強く、女性は、特に結婚を焦り始めると言われていたが、今ではそうでもない。
「そもそも、結婚しないといけないというのは、どうしてなのか?」
 というところから、考えてしまう。
 今の時代に、
「家系の存続」
 などというのは、正直ナンセンスである。
 逆に、
「結婚しないといけない」
 などというのは、決めつけであり、却って結婚を焦らせてしまって、ロクでもない相手を選んでしまうということもないとはいえない。
 昔みたいに、
「許嫁」
 であったり、
「お見合い」
 などというので結婚して、
「本当にうまくいくのだろうか?」
 と考えたことがあったが、逆に、
「お見合い結婚の方が長続きする」
 と言われるくらいで、ただ、今であれば、平成の頃にあった、
「成田離婚」
作品名:怪しい色彩 作家名:森本晃次