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「自分の見栄のため、子供に邪魔をされたようで、叱ることで、その視線をそらそうと考えているのではないだろうか」
 そんなことを考えると、
「叱りつけている親を見るのは、嫌悪以外の何物でもない」
 と思えて仕方がないのだ。
 子供というものが、いかに苛立ちがあるものかというのを、子供が分かるはずもない。そもそも分かっていれば、わざわざそんな態度を取るはずもないのだ。
 きっと、大人になった時、
「自分は常識人になった」
 という感覚から、
「子供は叱りつけるものだ」
 と考えるのだろうが、たまに、子供を叱りつけている母親を見て、
「これは、ストレスからの怒りを子供にぶつけているだけではないか」
 と感じると、
「子供というものを、しかりつけてはいけない」
 という感覚になってしまうのではないだろうか。
 そんなことを考えると、そこで、
「二重人格の自分が生まれた」
 ということを、無意識の中で意識しているのではないだろうか?
 二重人格というのは、
「子供の目から見た状況」
 と、
「大人の目から見た状況」
 というだけで、人格といってしまうのは間違いなのかも知れない。
 子供の頃に見る大人というのは、威厳のあるもの以外の何者でもない。しかも、子供というのは、子供心に、意外とまわりの状況が分かっているものであり、世界を分かっていないことを恐れているのだろう。
 子供の中で一番知りたいことは、たぶん、
「限界」
 のようなものではないだろうか?
 それだけ、何も分かっていないということであり、そのまわり全体が、無限に続いているものが、目標であったり、可能性であったりということが分かってくれば、目指すものが分かるだけに、怖くはないだろう。
 しかし、子供であれば、そこまで分かるわけもなく、漠然と怖がっている状態なのである。
 そうなると自分の限界や目標が何かということが分からないと、この恐怖や不安は消えることはない。
 分かってきたとしても、消えないかも知れないと思うのは、
「そこで新たに、先が見えてくるからだ」
 ということが分かってくるのは、若いうちではないということなのかも知れない。
 大人になってくると、今度は、親子を見ると、親の方に少しずつ意識が向いているのが分かってくる。
 大人になるにつれて、子供の頃に、
「どんなことを考えていたのか?」
 ということが分からなくなってくる。
 それも、
「本当に子供の頃に分かっていたのだろうか?」
 ということを考えるくらいに、子供がまったくといっていいほど、分からなくなるのであった。
 そんなことを考えると、
「子供が大人を見る方が、大人になって子供を見るよりも、理解しやすいのかも知れない」
 と感じる、
 しかし、いかんせん、
「子供というのは、まだ大人になったことがないので、大人というものが分からない」
 ということから、逆に、大人のことを、自分の延長線上で見ることにより、見えてくるものがあるのではないだろうか。
「見えていないようで、実は見えている子供の目、逆に、見えているつもりでいるのに、まったく見えていない大人の目、一体いつから、その視線は重なることもなく、行き過ぎてしまったのだろう?」
 と考えてしまうのだった。
 だから、大人になると、
「自分が子供だった頃のことを思い出して、子供にあまり叱ったりしないようにしよう」
 と思うのだが、気がついたら叱りつけていた。
 しかも、叱りつけている時は。
「これが当たり前だ」
 とおもうくせに、実際には叱りつけている自分の姿が、無意識なくせに、後になって冷静になると、頭の中に浮かんでくるのだった。
 実際に自分が成人した頃、(当時は20歳で成人)子供を叱っている母親を見ると、
「自分のストレス解消のためと、まわりに迷惑を掛けてはいけないというポーズのために、子供を叱りつけているようにしか見えなかった」
 のであるから、子供が泣きわめく姿をみて、
「こんなの見てられない」
 と思わず、目をつぶりたくなったのも無理もないことだろう。
「皆が皆、そんなことはないはずなんだけどな」
 とは思うのだが、どうしても、
「母親の都合」
 ということでしかないようにしか見えないのであった。
 その発想は、
「大人が子供に叱りつけているのを見て、どうして自分の子供の頃を思い出すことをしないんだ?」
 という発想に似ているではないか。
「子供と大人というその距離は、果たしてどちらが近く感じるのだろう?」
 あくまでも、
「目で見た錯覚」
 という意味で考えると、上から下を見下ろすよりも、舌から上を見上げたようが、近くに感じるのではないだろうか?
 例えば、3階くらいのところから、1階を見下ろすのと、1階から3階を見上げるのとでは、明らかに見上げる方が近くに見える。
 ただ、それは、人間の中にある、
「高いところが怖い」
 という、
「高所恐怖症」
 なる感覚が、錯覚というものを見せるのかも知れない。
 だから、一概には言えないのだが、
「高所恐怖症」
 という概念のない、
「立場による高低」
 であれば、
「子供が親を見る方が近くに感じられる」
 ということになるだろう。
 しかし、逆に、
「子供は親になったことはないが、親は子供だった時代を知っている」
 という意味から考えると、バランスという意味で、
「この感覚も当たり前のことなのかも知れない」
 ということであった。
 そういう意味で考えると、
「親になった、かつての子供が、子供の頃のことを思い出せないかのように、子供を叱るというのも、無理もないことではないか?」
 と言えるのではないだろうか。
 バランスが取れているように思うのは、あくまでも錯覚であり、それは、
「冷静になって少し離れたところから見てみると、明らかに、大人が子供を叱っている姿を見ると、嫌な気分しかしない」
 ということからであろう。
「なるほど、子供の頃に、親から叱られるという感覚が、恐ろしくて不安だったというのは、そういうことなのか?」
 と、まるで、子供の頃に、大人になってからの感覚に気づくというのは、
「子供の頃、どこかで、上から見下ろす時の、気持ち悪さを感じたからなのかも知れない」
 と感じるのであった。
 たまに感じるのが、
「前世の記憶なのではないか?」
 と感じるのだった。
 前世というものを考えた時、昔は、
「前世の記憶があるとよく言われるけど、本当に自分の前世が人間だったのだろうか?」
 ということを考えたからである。
「輪廻転生」
 という言葉があり、
「生き物は、一度死んでも、またどこかのタイミングで別の生を受けて生まれ変わる」
 というものであった。
 果たして、人間が前世であれば、
「人間として生まれ変われるのだろうか?」
 という考え方があるが、これは宗教によって考え方は違ってくる。
 世の中には、数多くの宗教というものが存在するが、そのほとんどは、輪廻転生が信じられている。
 ただ、その時、
「人間は人間に生まれ変わるか、何に生まれ変わるかということで、いろいろ分かれていたりする」
 という考え方があるのだ。
 ある宗教は、
作品名:平均的な優先順位 作家名:森本晃次