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 それだけ、上司が部下に対して、いかに扱っていいのかが分からないというのは、大変であろう。
 しかも、今まで、新入社員をあまり取っていなかった会社は、中間職がいない。20代後半から、40代前半くらいまでの、主任から、課長クラスまでの、いわゆる、
「バリバリの世代」
 というものが、いなくなっているのだ。
 今まで、恒例のように、新入社員を取ってこなかったことで、気が付けば、事務所は、ベテランばかりになってしまい、40代前半のいわゆる、
「一番の若手」
 が、主任、係長クラスの仕事をし、それ以上の人が課長も兼務というような感じであろうか。
 完全に、自分たちの仕事がカオスになり、気が付いた時に、上司ばかりという、
「こんな会社に誰がしたんだ?」
 と言いたいくらいなのかも知れない。
 そんな会社に勤めるようになったこの時期は、新入社員は貴重だった。
 しかし、上司の態度に嫌気をさしたり、会社の先行きに心配を感じて、会社を辞めていく人が続出した。
 そんなわけで、橋爪も、会社を辞めることにした。
 何しろ、都会の生活にも嫌気が差していたので、気にはいらないと思ったが、九州の中の大都市ということで、博多に戻り、職を探すことにした。
 幸いにも、学生時代の友達が、
「うちの会社が募集しているぞ」
 ということで、面接を受けてみることにした。
 東京でやっていた仕事が、ちょうど、今回面接した会社でも受け入れられるということで、自分がやっていた仕事をアピールすると、
「合格です。今度、お越しになられる時に、同封の書類にサインと、必要なものを揃えてください」
 ということで、入社に必要なものを揃えて、いよいよ地元では大都市の博多の街で働くことになったのだ。
 福岡市内は、九州で一番の大都市ということで、私鉄や地下鉄、さらに、バス路線も充実している街であった。
 ただ、交通マナーの悪さは全国でも有数らしく、
「車の運転には、気を付けるように」
 ということを、会社からも言われていた。
 なるほど、実際に運転してみると、赤信号でも、平気で交差点に突っ込んでくる車の珍しくなく、だからといって、自分だけが交通マナーを律義に守っていると、事故に遭う可能性もあるので、仕方なく、まわりの運転手に気を遣いながら、流れに逆らわないように運転するしかなかった。
 そのために、少々の運転は仕方がない状態だったが、慣れてくると、何とか気にしなくてもよくなるのだから、いい加減なものだともいえるだろう。
 そんな悪いところもある街であったが、昔からの伝統を大切にしたり、その街独自の伝統を、味であったり、工芸品であったりを、全体で守っているだけではなく、
「個々の店でも、守り続けているところが、いかにも、博多の街」
 という感じで、親しみが感じられた。
 福岡の街は、市の中心部から、福岡城跡と、昔の武家屋敷があったりしたところというだけに、官庁街があったり、反対側には、商業施設などもあり、結構賑やかになっていたりした。
 昭和の頃は、砂浜が広がり、海水浴場などが、ある程度のところであったものが、平成に入っての、
「博覧会ブーム」
 に則って開かれた、
「アジア太平洋博覧会」
 いわゆる、
「よかトピア」
 と言われた博覧会の跡地に、マンションや病院、さらに、コンピュータ関係や大企業の九州支社などが、たくさん入った地区ができたり、さらには、この地区に移ってきた、プロ野球球団が、ドーム球場を建設したりして、開けてきたのだった。
 そもそも、江戸時代までは、海だったところなので、その発展は、人口の増加とともに、目まぐるしいものがあったのだろう。
 そんな福岡市で、イベントあっせん関係の会社を営んでいて、いろいろな企画をやったり、地元情報誌なども発行するという、平成になって、いや、
「バブルが弾けてから」
 というもの、普通であれば、多角経営は、敬遠されがちだが、この会社は、それらのことを行い、実際に収益をあげようとしていた。
 橋爪が入った時は、まだまだ、
「海のモノとも山のモノとも分からない」
 と言われていたが、それでも、彼の悪運が強かったというべきか、結果として、東京にあのままいたら、
「ノイローゼとなって、気が狂っていたかも知れない」
 という思いがかなりあったので、思い切って、
「福岡に来てよかった」
 と思った。
 しかも、会社がいい方向に向かっているのだから、これ以上のありがたいことはないというものであった。
 そんな会社において、毎年のように企画をしているのが、
「一つは必ず、地元のものをアピールするような企画」
 ということで、そのプロジェクトリーダーを、約10年ほど続けてきて、その後5年ほどは、現場を後輩に任せて、自分は、本部で企画を見るということをしていた。
「企画を通すのも、結構大変だった」
 と、今では思っているが、その企画を通すための、
「当時の難関」
 と呼ばれた相手を、今の自分がやっているというのは、実に皮肉なことだと思うのであった。
 ということは、
「今の立場になると、どちらの気持ちも分かるので、複雑な心境だ」
 と考えると、最初の頃の自分が、
「どれほど、怖いもの知らずだったのか?」
 ということを思い知らされた気がした。
「穴があったら、入りたい」
 という言葉があるがまさにそんな感じで、顔から火が出るような感覚で、
「本当にあれだけの大それたことを、よく提案できたもので、自分のまわりについていた人間が誰一人反対しなかったというのを、思うと、そっちの砲が怖いと思うくらいだった」
 と感じるのだ。
 若造の、しかも、東京から戻ってきたというだけで、それ以外には、何もない人間を、いきなり、責任者などにするのだから、最初から、
「この会社、大丈夫か?」
 という思いはあった。
 福岡という、九州の中では1番の大都市であり、全国でも、5本の指に入るといってもいいだろう。
 ただ、一度東京や大阪などの大都市を味わった人間からすれば、どうしても、
「中途半端な都会」
 というイメージしかなかった。
「私鉄もあるといっても、一社だけ、さらに、その路線も本戦と言えるものも一つしかなく、地下鉄だってあるにはあるが、大きな線が、2つしかない」
 というものであった。
 地下鉄も、どちらの線も片方それぞれに、
「乗り入れ状態」
 になっている。
 そのせいもあってか、少々、ややこしいことにもなっているのだ。
 というのも、
「皆さんは、私鉄とJR(旧国鉄)で線路の幅が違うのを知っているだろうか?」
 というものである。
 しかも、
「同じJRでも在来線と、新幹線で、線路の幅が違う」
 ということである。
 つまり、
「私鉄が乗り入れする線と、JRが乗り入れする線とでは、同じ地下鉄でも、線路の幅が違う」
 ということであった。
 福岡においては、まず、筑肥線という線があるのだが、こちらは、佐賀県の唐津まで伸びているJRの線であった。
 地下鉄開通までは、博多駅から、ローカル線乗り換えという形で、福岡市内を横断する形で伸びていたのだが、今では、
「地下鉄空港線」
作品名:平均的な優先順位 作家名:森本晃次