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元ソーリ暗殺未遂

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 というところから話は始まっているのではないだろうか?
 あくまでも、勇気ある地球人というのは、
「自分を犠牲にしてでも、他の人を助けようという勇気に感動した」
 ということである。
 つまりは、先ほどの話の、
「地球を守るためには、他の星を犠牲にしてもかまわない」
 ということになっているではないか。
「この時点で矛盾なのではないか?」
 ということであり、そのあたりは一体どうなのであろう。
 確かに、問題は、
「最初の勇気ある青年が、自分を犠牲にした」
 というのは、
「自分だけの命」
 を犠牲にしたわけであって、劇中の話のように、地球人類ということで、団体を救うということで考えると、
「まず、宇宙人よりも、地球人ということだ」
 というのであれば、理屈としては分からなくもない。
 だが、もっと話をほじくっていけば、
「じゃあ、人ひとりの命であれば、自分だけの判断で捨ててもいいのだろうか?」
 ということである。
 というのは、
「その人だって、今までたった一人で生きてきたというわけではない」
 といえる。
 つまり、
「親もいれば、友達もいて、仲間というのがいるはずだ。そんな人たちのことを考えず、自分の命だから、その命を簡単に捨てて、それを勇気と言えるのだろうか?」
 ということである。
 自分の命をどこまで大切にするかということであるが、天界孤独であれば、確かに、人のために命を捨てても、それを勇気といってもいいのだろうが、それでは、その人は、
「生きていても価値がないから、人のために死ねば、それが美徳だ」
 といっているのと同じである。
「ちょっと待て」
 と普通なら考えるであろう。

                 主義の問題

 そう、この考え方は、大日本帝国の、
「天皇陛下万歳」
 ということに通じるものではないだろうか?
 大日本帝国では、
「天皇が絶対であり、天皇が、日本においては神様で、天皇陛下のために、命を落とすのは、日本国民の義務だ」
 という時代だったではないか。
 そもそも、それが、
「軍国主義日本を作ってきた」
 ということで、そんな、
「立憲君主」
 の国から、
「民主主義の国」
 に変わったというのに、こんな理論の放送をしてもいいのだろうか?
 いや、逆に、おおっぴらにできないことで、
「子供向けの番組において、軍国主義のような考え方を忘れないようにしようという意図でも働いたというのか?」
 と考えられなくもないということであった。
 つまり、ここで大きな問題点は、
「数による優位性」
 である。
 要するに、民主主義の絶対的な考え方は、
「多数決」
 という言葉で代表される。
 つまり、賛成が多ければ、そっちの意見が生きるのだ。
 しかし、実際の行政ともなると、そんな簡単にはいかないということである。
 それが分かっているからなのか、それとも、そんな民主主義への心ばかりの、
「反発なのか」
「数の理論ではない、力の理論」
 が、特撮では描かれている。
「ちょっと待て」
 ここで思うのが、
「数の理論では、限界がある、民主主義は、数の理論で勝った方が圧倒的に強く、彼らが、勝ち組として、生き残り、さらに強くなっていく」
 という理論になれば、結果として、
「勝ち組と負け組の差が広がる。つまり、貧富の差が激しくなり、一部の特権階級が得をするだけで、それ以外は明らかに損をする。しかも、滅亡するところも出てくる」
 ということになり、それが、
「民主主義の限界」
 であった。
 それを、打開し、理想の社会として考えられたのが、社会主義であり、共産主義であった。
 何が違うかというと、一番大きいのは、
「資本主義というのは、あくまでも自由競争であり、国家がほとんど介入しない。しかし、そのせいで、貧富の差が激しくなったり、少数派が切り捨てられるということになるのだ。だから、その解決策として、すべての権利義務を国家が共有するということであり、資本主義では、国家が企業に介入できないのとは別に、共産主義では、企業が皆、国営なのである」
 つまり、
「儲けはすべてが、国家のものとなり、給料は皆に、均等に分け与えられる」
 というのだ。
 ということは、
「国家が何よりも強くなくては、成立しない」
 ということで、
「国家至上主義」
 というわけである。
 そうなると、実は逆の問題も出てくる。
 競争がなくて、皆が同じ給料であるということは、
「他人よりも一生懸命に働いても、結局皆同じ給料であれば、給料以上のことを誰もしないということだ」
 そもそも、
「貰っている給料だって、それが妥当な金額なのかどうか。あてになるものではない」
 ということだ。
 だったら、
「誰が一生懸命に働くものか、給料分しか、対価に似合っていると思っている今以上のことは誰もしようとは思わない」
 となると、毎日をただ、過ごしていればいいというだけで、成長というものがまったくなくなってしまうのだ。
 そうなると、
「社会の発展などあり得るわけもなく、他の資本主義の国を戦っても、勝ち目があるわけはない」
 といえるであろう。
 資本主義においての会社は、
「成果を挙げた人間には評価をして、それに似合う賃金を渡しているから、今以上に頑張る」
 という考えが出てくるのだった。
 資本主義の
「貧富の差が激しい」
 というのは、貧しい会社のさらに底辺での生活を余儀なくされている人たちであり、
「いくら、貧富の差がないとはいえ、毎日同じ仕事を同じようにして、ただ、それに対して金をもらうだけの、社会主義と、どちらがいいというのだろう」
 ただ、社会主義国は、とにかく。
「国家が強い」
 のである。
 そんな社会において、
「どちらが果たしていいのだろうか?」
 という考えを持つよりも、
「どちらの方がマシなのか?」
 ということを考える方がいいのではないか?
 つまりは、社会を考えるというのは、あくまでも、
「減算法」
 であり、
「資本主義、民主主義」
 であっても、
「共産主義、社会主義」
 であっても、そのどちらも、
「最初は、どちらも、完璧だと考えられたことではなかったであろうか?」
 ということである。
 特に、社会主義というのは、
「民主主義の限界に挑戦する考えということで生まれたものだったはず」
 だから、少なくとも考えた人は、
「これで、民主主義を超える完璧な発想」
 ということではなかったか。
 ということは、社会主義も資本主義も、
「国家の主義として、採用されるということになったのは、あくまでも、すべてにおいて正しいということでの採用だったのではないだろうか?」
 というよりも、
「その時代の考え方としては、これが一番最高だ」
 ということなのかも知れない。
 とにかく、他に主義があったなかったは別にして、最初に考えたことが、すべて正しいということで始まったことでないだろうか。
 つまりは、
「まわりが見えていない。限界があるのかどうか分からないから、完璧だと考えた」
 といっても過言ではないだろう。
 それは、社会主義に対しても同じだったのかも知れない。
 あくまでも、その時の、
作品名:元ソーリ暗殺未遂 作家名:森本晃次