元ソーリ暗殺未遂
の問題と、様々な問題があった参議院選挙であったが、選挙という問題から、選挙寸前に起こった、
「襲撃事件」
というものが、大きな問題となってきたのだった。
襲撃された、その人は、何とかかすり傷程度で済んだのだが、もちろん、その時の犯人もすぐに捕まった。
彼は、個人的に、その政治家を恨んでいたようで、政治的な意図で殺害を計画したというが、そのバックには誰も潜んでいるというわけではなかった。
実際に、今までにも、選挙遊説中に、政治家が、
「命を狙われた」
ということは、なかったわけではない。
実際に、何度か殺されかかった政府の人間もいて、戦後では、実際に暗殺された人は少なかったという。
少なくとも、首相関係者、つまり、
「現首相」
であったり、
「元首相」
という人に、命を奪われたという人はいなかったということだ。
世の中にはいろいろな考え方の人がいて、中には、強引な行動を取る人たちも少なくはない。
そんな人の中には。
「本当に殺してやりたかった」
という、過激な人もいるし、冷静になれば、自分がやったことを、
「浅はかだった」
と反省する人もいる。
もちろん、反対する人には、本心からの人もいるだろうが、実際には、
「次の機会にあわやくば」
と考えている人もいるだろう。
そこには、その実行犯の裏に、組織があったりすると、簡単にはいかないことも多いだろう。
そう考えると、
「世の中というのは、一筋縄でいくものではない」
ということになるのだろう。
政治家というものをいかに考えるかということも大切だということで、政府は、公務を行いながら、選挙も見なければいけない。結構大変だといってもいいだろう。
そういう意味での、
「元首相」
などという要人における選挙運動は、結構強いものであるといっても過言ではないだろう。
ただ、今回の選挙は、普通であれば、
「政府与党の楽勝」
ということであったのだろうが、政治家によっては、
「一人でも、自分の影響力のある人を、当選させたい」
と思うのも当たり前のことだ。
現職の国会議員が考えるのは当たり前のことで、むしろ、
「元首相」
のような、現在では、それほどの力を持っていない人にとっては、これから巻き返しを図るという意味では大切なことだったのだ。
そんな時代において、暗殺未遂事件のターゲットとなった元ソーリは、結構毎日のように、積極的な、
「遊説活動」
を進めていた。
「近畿地方にいたのかと思えば、東北、次の日には九州」
と、目まぐるしく、遊説をしていたのだ。
まさに、
「時間との闘い」
それが、その時の遊説だったのだ。
逆にいえば、
「自分の影響力のある政治家が全国に散らばっている」
ということであろう。
全国に分布しているくらいなのだから、それを組織化すれば、かなりのものであることは分かり切っている。
政治家というものを考える時に、
「いかに、主義主張が同じ人をたくさん集めるか?」
ということが、一番重要なことで、それが、今の政府を作っているといっても過言ではない。
「とにかく、憲法改正を」
というのが本音であろうが、あまりにも全面に押し出すと、そこは難しい状態になるということは分かり切っていることだろう。
ここからは、作者の個人的な意見というものに入るので、少しの間ご容赦いただきたい。
今の時代において、民主主義というものを、アメリカに、
「押し付けられた」
のであった。
しかし、戦後の一時期、知識人や、有識者といわれる人たちの一定数の人が、
「社会主義、共産主義というのは、実に理想の世界だ」
ということをいっていた時代があった。
何と言っても、
「民主主義であったり、資本主義には限界がある」
ということである。
というのも、民主主義の基本は、多数決である。ということは、
「少数派は、気にされることもなく、バッサリと切り捨てられる」
ということだ。
昔の特撮ヒーロー番組やアニメなどで、
「人一人の命は、地球よりも重い」
ということで、ヒーローがジレンマに陥るという話があった。
さらには、
「地球を救うためには、アルマゲドンのように、軌道制御が故障したから、地球の軌道を変えてほしいと依頼してきた宇宙人がいたが、地球を救うためにはやむを得ないということで、相手の星を破壊した」
という話があったではないか。
確かに作中では、
「宇宙人を地球に移住させようと呼びかけを行ったが、応答がなかった」
ということにして、彼らもろとも、地球から発射したミサイルで、宇宙の都市国家を破壊したのであった。
そんなにきれいごとを言ったとしても、
「地球が生き残るためには、相手を滅ぼしてもいい」
という理屈に変わりはない。
確かに時間がないことで、ジレンマに陥った地球であったが、その時はしょうがなかったかも知れない。
もっといえば、
「話をそこで終わらせていいのだろうか?」
ということである。
その後、宇宙人は、帰る星がなくなって、地球を彷徨うという悲しい話になってしまった。
これが大人だったら、
「何か含みがあるのでは?」
と考えることもできるが、普通に子供番組である。
そんな子供番組を、そんな終わらせ方でいいというのだろうか?
まるで、浦島太郎を、
「悲劇で終わらせた」
という話と似ているところがある。
時間的な尺もあったのだろうが、ナレーションでもいいので、最後に。
「地球では、この事件を契機に、地球の軌道を変えることができるという研究が、行われるようになった」
とでもひとこと添えれば、子供心に、
「ああ、それはいいことだ」
ということで、教育上もいいこととして受け取られていたはずだ。
それなのに、その一言がなかったのは、あくまでも私的解釈であるが、
「ドラマのミステリアスな部分が、最後にその一言を入れることで、台無しになってしまう」
ということであれば、分からなくもないが、放送終了後のエピソードとしても、何も言われていないではないか。
そもそも、あの特撮番組は、後になってから、いろいろ研究がされて、
「あの時に言いたかったのは」
ということで、解釈もいろいろだったのだ。
そもそも、そういう番組だったのだ。
子供だけではなく、大人が見ても、感心するような番組ということで作られたはずなのだから、子供を無視して、
「大人なら、解釈の範疇だ」
といってとしても、それで収まることだといえるだろうか。
つまり、子供への夢や教育というよりも、どちらかというと、製作側の自分たちの理屈や、作品の精巧さというものを求めるものではなかったのではないだろうか?
ということであったのだ。
そんな中で、大きな矛盾として、
「地球を救うヒーローが宇宙人」
というのも、結構な無理があったのではないだろうか?
要するに、宇宙人が、パトロールをしていて、
「地球という美しい星がある。その星を守りたい」
と思ったということであったり、
「たまたま見つけた地球人の勇気に感動して。地球を守ろう」
と決めた。