元ソーリ暗殺未遂
ということであったのだ。
だが、大日本帝国には、今はないもので、その当時存在したのは、
「軍隊」
であった。
今の、
「自衛隊」
に当たるものなのだが、その体制は、かなり違っている。
昔の軍隊は、憲法では、
「天皇大権」
と呼ばれるもののなかにある、
「統帥権」
というものであった、
統帥権というのは、
「天皇は陸海軍を統制する」
ということであり、これは何かというと、
「日本軍というのは、天皇直轄の機関だ」
ということであった。
ということはどういうことなのかというと、
「政府であっても、軍の作戦や予算に口を出してはいけないということであり、軍の機密を知ることはできない」
ということであった。
それがあったからこそ、大東亜戦争前の日本は、
「陸軍が暴走したことで、悪魔のような戦争に突き進むことになった」
といわれている。
実際には、違うところが多いのだが、表から見れば、
「それ以上でもそれ以下でもない」
ということである。
では、なぜこんな面倒なことにしたのかというと、明治政府においては、元々は幕府を倒した藩が中心になって作ったものだった。
というのは、当時の政府も軍も、同じ立場の人間が憲法の元で行動していたのだから、
「軍と政府が独立した形をしていたとしても、そこで、大きな問題は怒ることはなかった」
というものである。
しかし、後続する世代に入ってくると、この問題が大きくなってきて、
「権力が一人に集中しない」
ということもあってか、
「政府の大臣である、陸軍大臣と、軍の中で、天皇の次、つまりは、実質的な軍のトップである、参謀総長とは、兼任してはいけない」
ということが、条文化されてはいなかったが、慣例として言われてきたのだった。
そんなことが、大東亜戦争において、大きな問題を残すことになった。
つまり、総理大臣であり、陸軍大臣である東条英機、さらには、他の大臣たちは、軍の問題に対して何も言えない。暴走したとしても、それを諫めることはできない。何しろ作戦を知ることもできないのだからである。
せめて、天皇に上奏した時に、天皇にお伺いを立てるくらいであり。首相が東条英機のように、
「天皇至上主義」
と考えている人には、大きなジレンマであったに違いない。
問題としては、
「軍内部のいざこざ」
もあったのも事実であった。
そんな状態において、東条英機は、慣例を破る形で、上奏して、
「参謀総長と、陸軍大臣の兼任を、有事の特例ということで、認めてほしい」
ということを願い出るしかなかったのだ。
天皇としては、
「そんなことをして、権力が一人に集中しないか?」
ということを話したが、東条首相は、
「大丈夫です」
と答えたことから、
「有事による特例」
ということで、参謀総長と、陸軍大臣の兼任が、特例として認められることになった。
ただ、彼は、首相だけではなく、他の大臣をいくつも兼任していた。見る人から見れば、
「権力の一極集中以外の何物でもない」
と思われざるを得ないだろう。
だが、実際には、それが行われた。
元々、東条英機は、
「敵の多い」
人ではあった。
ただ、以前は陸軍内部では、結構慕われていたというエピソードもある。上司になると、部下の家庭事情を把握し、部下に気を遣うという、
「部下から慕われる上司」
だったのだ。
だから、彼には、
「戦争を引き起こした首相」
などという悪いイメージがつきまとっているが、本当はそうではない。
そもそも、大東亜戦争は、あの時代に、誰が首相をやっても、避けることはできなかった。
元々、当時は近衛内閣だったのだが、当時の陸軍は、
「士気の問題」
あるいは、
「メンツの問題」
などから、
「戦争も辞さない」
という強硬派であった。
その先頭が登場陸軍大臣だったわけだが、その圧力に屈し、近衛文麿は、
「そんなに戦争がしたければ、死体人がすればいい」
というような言い方をして、総辞職してしまった。
そこで、しょうがなく、その後の大命が天皇陛下から下されたのが、東条英機だったわけだ。
彼を推挙したのは、
「天皇陛下を一番立ててくれる」
という意味で、一番いいだろうということを言いだしたのが、内大臣の、木戸内府だったという話も伝わっている。
ただ、その時にはすでに、戦争を避けることのできないところまで来ていた。もっとも、陸軍大臣だけの立場の時、戦争突入を強硬に推していたわけなので、ある意味、
「自業自得」
ともいえるかも知れないが、立場上のことであり、気の毒と言えなくもなかった。
ただ、本当に気の毒だったのは、
「戦争を始め、まわりから、戦争を始めた首相」
ということであったのだが、
「統帥権をバックに、政府が軍の作戦には、一切口出しできないどことか、軍関係のことは一切聞かされない」
ということなので、
「戦争指導者でも何でもない」
ということだっただろう。
元々、満州事変の時、当時の政府外交において、軍の作戦が、一部漏れたような話があったことから、軍の機密というものが、さらに厳しくもなったのだろう。
それを思うと、戦争前夜から、さらに、政府と軍の距離はまったく離れてしまい、
「軍が暴走したかのようにみられる」
という状態に陥ったのも、無理もないことだったのかも知れない。
ある政治家
そんな状態において、いわゆる、
「勝ち目などない戦争」
に突入した。
こうなってしまうと、日本が生き残る道は一つしかなかった。それが、
「日露戦争と同じ道」
ということで、
「まず軍が、奇襲攻撃をかけ、相手の出鼻をくじく形で、身動きできないようにしておいて、初戦において、圧倒的な強さを示し、相手に対して戦意喪失させるくらいの決定的な勝利をいくつもおこなったところで、講和条約を有利に進める」
という方法しかなかったのだ。
連合艦隊の司令長官である山本五十六が、
「戦争の見通し」
について聞かれた時、
「最初の半年やそこらは、存分に暴れて見せますが、それ以上となると責任は負えません」
ということを、答えている。
実際には、その通りとなり、戦争は日本軍が主導権を握ったまま進み、半年までには、作戦の大半を達成していたのだ。
しかし、結果、戦線が伸びすぎてしまい、武器弾薬の補給がおぼつかなくなり、さらには、ある程度まで壊滅させたはずの、アメリカ太平洋艦隊も、
「驚異の量産性」
により、戦力はアメリカも充実してきた。
そうなると、日本には勝ち目はなかった。そこから先が、
「泥沼」
に嵌りこむのだった。
「中国大陸での失敗を、太平洋上で、アメリカに対してしたのだから、結果は見えていた」
ということであろう。
しかし、軍は情報統制を行い、必死に国民の士気が下がることだけを恐れ、無差別爆撃を受けても、
「士気さえ高揚であれば」
ということで、
「竹槍訓練」
「バケツリレー」
などという、致命的な訓練でもして、士気を高めるしかなかったのだ。