元ソーリ暗殺未遂
「領事裁判権を相手国に認める。つまりは日本で行った外国人を、日本側が裁くことができない」
というものであり、さらには、
「関税自主権がなく、貿易による関税率を、日本側で決めることのできないということで、低関税に固定される」
というこの二つだけでも、かなり大きな不平等条約であったのだ。
日本は、条約上は、
「諸外国の植民地」
といってもいいだろう。
つまり、日本という国で、条約を結んでいる外国人が、何か犯罪を犯しても、日本側に引き渡すことができないということだ。
そして、
「貿易を行えば行うほど、諸外国が得をして、日本が損をする」
というような形となり、
「植民地」
といわないまでも、独立国としての、体裁は取っているが、法律上は植民地と変わりないということであろう。
だから、最初は、外国追い払いを目指していた連中も、諸外国の恐ろしさに気づき、やっと、日本の置かれている立場に気づくと、
「幕府を倒して、新政府を打ち立て、諸外国に追いつき追い越せで、最終的には、不平等条約の撤廃を目指した」
ということであった。
そんな日本であったが、
幕府を倒すというところまではうまくいったが、何しろ、政治には、素人の集まりであり、しかも、それまでの封建制度という国家体制を、完全にぶっ潰さなければ、日本の近代化はあり得なかった。
ますは、武家政治の徹底的な崩壊であった。
「廃刀令」
「四民平等」
「廃藩置県」
「版籍奉還」
「廃城令」
などを次々に出して、封建制度を徹底的に破壊した。
そうでもしないと、日本の近代化というのはありえなかったのだ。
もちろん、それによっての弊害が出ることも分かっていただろう。たくさんの武士が失業することになる。それまで、武士は、士農工商では一番上にランクされた地位だったのを、その立場を否定するのだから、反発や反乱が起こっても無理もないことだろう。
西郷隆盛が、
「武士の不満を表に向ける」
という意味で打ち出した、
「征韓論」
というものも、新政府に受け入れられず、結局、薩摩に戻ると、そこで、下級微視たちに担ぎ上げられ、結局自分が作った新政府軍と戦わなければいけなくなった。もちろん、最新鋭の武器を供えた新政府軍に対して勝てるわけもなく、西郷隆盛は自害することになったのだが、最後に、
「もうここらでいいだろう」
と言ったと伝えられるが、その心境は分からないでもないといえるのではないだろうか?
これを、
「西南戦争」
というのだが、似たような乱として、
「佐賀の乱」
「神風連の乱」
「萩の乱」
「秋月の乱」
と、元々、新政府を作るために、協力した藩が起こした乱だったのだ。
西南戦争だって、薩摩である。
彼らとすれば、
「幕府を倒すため、新政府を作るために戦ってきた自分たちを、他の藩と同じように、迫害される形になっては、やっていられない」
というのも当たり前のことである。
「俺たちは、こんな政府を作るために戦ったわけではない」
という言葉が聞えてきそうであるが、
そんな元々の仲間でも犠牲にしなければいけないほど、不平等条約改正とは、大変な道のりだった。
まずは、
「日本という国が、先進国にできるだけ近づいたという意味で、文明国である」
ということを、諸外国に認めさせなければいけなかった。
そのため、究極な、
「西洋かぶれ」
であったり、
「貧しい国を産業の発達した国」
ということを見せるために、
「殖産興業」
という政策が取られた。
近代化した機械で、新しい産業を興すということであった。
そのために重要なこととして、
「国を富ませて、国家の防衛が自国でできるという兵の増強」
という意味でも、
「富国強兵」
というのが、その時の日本のスローガンとなったのだ。
不平等条約撤廃には、
「古い体制をぶち壊し、諸外国のように、議会政治を行い、憲法が、国内法律の基礎で大黒柱として機能するような国にしなければいけない」
ということであった。
それには、武家の解体はもちろんのこと、もう一つの柱として、
「教育の充実」
というのもあった。
政府ばかりが、方針を分かっていたとしても、国民全員の意識がバラバラだったり、これからの社会を担う次世代に、この考えを受け継いでいってもらわないと、せっかく自分たちが努力しても、後進が育たないと、何もならないということは重々に分かっていたことだろう。
かなり手荒なことをしては来たが、新たな体制を築くには、これも仕方のないこと、
考えてみれば、古代から中世。つまり、封建制度に変わった時でもそうであったではないか。
鎌倉時代の初期は。
「血で血を洗う」
といわれた、
「御家人同士の、勢力争い」
が繰り広げられた。
結果、北条氏が執権として、権力を握ることになったのだが、それも考えてみれば、
「統一された法律」
というものがなかったからだ。
だから、
「武力こそ正義」
といわんばかりに謀略を巡らせて、対抗勢力を次々に滅ぼしていく。
だが、それは、2代執権である北条義時の時代までで、3代執権の北条泰時の時代に、のちの徳川幕府の法律の基礎となる、
「御成敗式目」
というものができると、法律にしたがった沙汰が生まれるので、粛清や、土地を巡る争いなどということはなくなったのである。
そういう意味で、明治新政府も最初は、武士の時代をなくして、いわゆる、憲法という、「聖なる法律」
を基礎にした諸法制ができあがり、それを、天皇が中心になって、政治を行うということを、その憲法に明記することで、
「やっと日本という国も、諸外国のような近代国家になった」
ということが言えるのだった。
そういう国を、
「立憲君主」
というのだった。
日本も、伊藤博文を中心に、イギリスの議会政治から学んだ憲法をやっと設立することができ、議会も、曲りなりにでも開催できる国になってきたのだが、そこでやっと、諸外国との
「不平等条約」
の撤廃ということに対して、
「交渉のテーブルに着けるだけの立場ができた」
ということであった。
つまりは、
「日本はスタートラインに立つことができた」
というだけで、あれだけの急激な改革を行いながら、新政府が樹立されたから、数十年経って、
「やっとスタートライン」
ということである。
それを考えると、
「日本という国は、果たして、本当に不平等条約を解消することはできるのか?」
ということであった。
ただ、その時の憲法において、いろいろな問題があったのも事実である。特に、
「軍と、政府の関係」
というところで、後世に、しこりを残すことになったのは事実で、実に難しい問題だったといってもいいだろう。
日本国憲法の最初の項として、主権というのがあるのだが、今の日本国憲法でいうところの、
「国民」
というのがそれに当たる。
さすがに、今の国民は、
「憲法の基本方針」
を知らない人はいないだろう。
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
そして、
「平和主義」
である。
つまり、
「日本国憲法においての、主権は国民であり、天皇は象徴でしかない」