パンデミックの正体
ということだったので、下手をすれば、3か国に攻撃される危険性があっただけに、幕府としても、条約を結ばないわけにはいかない。
そして、
「アメリカと結んだのであれば、他の国と結ばないわけにはいかない」
ということになり、他の国とも、同様の条約を結ぶしかなかったのだ。
その条約というのが、
「関税自主権のない」
そして、
「裁判などの領事裁判権を認めさせる」
というものだった。
要するに、
「外国人が何かをしても、日本人が裁くことはできない」
「関税も、日本が口を出してはいけない」
という、およそ条約とはいえない。不平等な内容だったということなのである。
医者である大先生は、いつもニコニコと診療していた。
特に、若先生が病院に帰ってきてくれてからは、その負担が一気に減って、よほどの難しい患者であれば、若先生と一緒になって手術をするが、それ以外は、そのほとんどが、小児科であったり、以前からこの病院をかかり付けとして利用してくれている未成年くらいの診察はほとんどだった。
だから、最近では時間もできて、自由に趣味もできるようになってきた。それまでは、病院の経営だけで精一杯、正直、本人も、
「こんな時期がやってくるなんて、想像もしていなかった」
と思っていたのだ。
つまり、
「半分、余生に足を突っ込んだようなものだ」
ということであった。
先生も、そろそろ、還暦を迎える頃だった。本人は、
「まだまだ現役」
とずっと思ってきたのだが、次第に身体のどこかにガタはくるもので、視力が落ちてきたり、腰痛が出てきたりと、一人では賄えないことも増えてきた。
看護婦も心配してくれていたところに戻ってきてくれた息子は、病院にとって、まさに。
「救いの神」
だったのだ。
先生にとって、若先生が戻ってきてくれたことは本当にありがたかった。最初は恥ずかしかったのか、手放しでは喜んでいないように見えたが、自分の余生ともいえる趣味が見つかってからは、恥ずかしげもなく、息子を褒めるようになった。
ただ、患者である子供たちは、まだまだ先生を慕っていて、
「若先生よりも、おじいさん先生」
と言っていた。
「おじいさん先生」
と言われることに抵抗がないわけではなかったが、くすぐったいと思うだけで、まんざらでもなかった。
まあ、未成年の子供から見れば、明らかにおじいさん先生だった。髪の毛もだいぶ白くなってきて、白衣とも似合っていて、首から聴診器をぶら下げていないと、
「老科学者にも見える」
といっても過言ではないだろう。
そんな老医師の趣味は、絵を描くことだった。
最近では、息子がやっと病院を回せるようになってくれたので。
「親父が、趣味を持ってくれれば、週に半分は、休んでも構わないぞ」
とも息子は言ってくれた。
息子は、すでに結婚していて、まだ子供がいない状況である。
奥さんは、看護婦の免許を持っているが、今は専業主婦だった。
しかし、
「そろそろ、看護婦の仕事に復帰したいとも思っているのよ」
というではないか。
それを聴いた先生も、
「そうか、それじゃあ、お言葉に甘えて、趣味の世界に入らせてもらおうかな?」
ということで、週に二回の絵画教室に通うことになった。
その日は、先生の診察は午前中のみで、昼からは趣味の時間にすることにしていた。
絵画教室は夜なので、それまで、午後は自分で気ままに、絵画に勤しんでいたのだ。
さすがに、暑すぎたり寒すぎたりの季節は、
「表で写生」
というのは厳しいもので、家で撮ってきた写真を見て書いている。
そういう意味では、表に出かけて、たくさんの写真を撮ってくるというのも、趣味のための大切な時間だったのだ。
少々、遠くに行くこともあった。
「温泉とか、1泊で行ってくればいいんだよ」
といって送り出してくれると、嬉しくなって、その言葉に甘えたくなる。
息子が帰ってきて、少しの間は、
「病院を一人で守ってきた」
というプライドがあるからなのか、
「年寄り扱いするんじゃない」
と言っていたが、次第に息子との間のしこりも解けてきて、気軽に話ができるようになると、それまでの頑なな態度がウソのように、実に素直になったのだ。
「それだけ、親父も年を取ってきたということなんだろうな」
と、若先生は思っていたようだが、その考えは、
「半分正解で、半分間違いだった」
といっていいのではないだろうか。
老先生は、元々からいこじだったわけではない。息子が帰ってきてくれてうれしかったのは間違いないことであり、そのおかげで、
「この病院も親父と私の二代で終わりか。まあ、時代の流れなんだから仕方がないことなのかな?」
と思っていたのだ。
だから、
「自分がしっかりしないといけない」
という思いが強く、
「わしの目の黒いうちは、ずっと現役を続ける」
という意志が固かったといってもいい。
だから、息子が帰ってきてくれたというだけで、手放しで喜ぶことはできないと思ったのだろう。
そんなところで、息子が帰ってきてくれた。
しかも、後から考えれば、
「なんと素晴らしいタイミングだったのだろう」
と思うほどの、ドンピシャで、素直に趣味の世界に入ることができたのも、
「息子があのタイミングで戻っていてくれたからなんだろうな」
ということであった。
趣味という言葉を一番最初に口にしたのは、息子の嫁だったのだ。
彼女は、息子と結婚する前は、看護婦として、バリバリ働いていたという。結婚前までしっかり働いていたこともあって、正直、料理や洗濯などと言った家事に関しては、ほぼほぼ素人といってもよかった。
しかし、
「さすがに、結婚してからはそれじゃあ、まずいだろう」
と息子が思ったのか、
「結婚したら、看護婦の仕事はしなくていいから、できれば、家事をしっかりやってくれないかな?」
と言ったことがきっかけだった。
実は、この言葉をいうのに、かなりの勇気がいったという。
というのも、奥さんになる人は、看護婦の中でもリーダー格のところがあって、診ていて、人から頼られるタイプであり、そのことに意気を感じ、余計に頑張るタイプだったのだ。
それを思うと、
「プライドが高い彼女にこんなことを言っても大丈夫なのだろうか?」
と思ったのだが、実際にいうと、かなり自分が思い込んでいたということを思い知らされた気がしたのだ。
「うん、分かったわ。ついでに、趣味のようなことも持ちたいと思っていたの」
というではないか。
これにはさすがに、意外な気がして、
「鳩が豆鉄砲を食らった」
というような表情になったことだろうが、若先生は、却って嬉しかった。
「そうかそうか、趣味をしたいというんだね? それもいいことだと思うよ。俺も応援したいくらいだよ」
と若先生は手放しで喜んだ。
奥さんの趣味は、ウスウス分かっていた。彼女は結構いい声もしていて、学生時代には、コーラス部に所属をしていたということだったので、
「ああ、歌を歌うことなんだろうな」
というのは分かっていた。