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パンデミックの正体

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「次の人がいつ来るかは分からないけど、でも、人間に戻れると、その間がとても短かった気がする。そうなると死ぬのも怖くはないのさ。生きることと、死ぬことに対しての感覚がマヒしてくるから、死を恐れない。つまりは、都市も取らないし、生きていた時間が俺に戻ってきたんだ。これでやっと死寝る」
 というのだ。
「本当に死ぬことが怖くないんですか?」
 というと、
「ええ、怖くはないです。何と言っても、500年も生きましたからね。生きているのがどういうことなのか、ここにいる間に悟ったような気もしたんですが、でも、元に戻った瞬間に、すべて忘れ去ったような気がしてきたんですよ」
 というではないか。
「俺には分からない」
 というと、少年は、
「いやいや、すぐに分かると思いますよ。僕も死ぬということが分かるまでに結構早かったからですね。一人で何の邪魔も入らないと、意外と、考える時間はたくさんあります。そして、考えるということが、ループであるということも分かってくるんですよ。堂々巡りを繰り返すというのも、いつも同じところに返ってくるわけではない。微妙に違っているんですよ。だから、人は老いてしまうのであって、寿命があり、そこに向かっていくんですよ。だから、堂々巡りというのは、決して悪いことではない。螺旋階段のようになって少しずつでも落ちていくことが、幸せなんだって感じますよ。確かに人間は、死に向かっていると言えるわけで、たった30年も生きていないのに、老化が始まったりするというじゃないですか。人間の、いや動物の生き死にというのは、デリケートなものであるんだけど、それだけ単純なんですよ。それを分からないということは、自分が単純になれない。つまり、素直になれないということなんでしょうね。単純ということは、新鮮なことであり、高価なことだと俺は思うんだよな」
 と少年は言った。
 少年といっても、500年も生きていて、考えることだけが許される中で、ただ、ずっと生きてきたのだ。
 それを考えると、
「俺もこれから同じ運命なのかと、震えが止まらないが、少年の話を聴いていると、納得がいくところもある。
「そうだよな、これから普通に生きていて、絶対に悟れないようなことを、ここにいれば悟れるんだ。何も爪痕と残せずに死んでいくことを思えば、ここにいるのも悪くはないか?
 ということで、
「悟りを開いたような気がする」
 のだった。
 その少年は、完全に人間に戻り、どんどん老いていく。その姿が、まるで特撮映画を見ているように、一気に年を取っていくのだ。
「まるで、浦島太郎に出てきた、玉手箱のようじゃないか?」
 と思うのだが、それは少し違う。
「玉手箱などなくとも、勝手に年を取っていくだけではないか?」
 と考えると、乙姫様が渡した玉手箱というのは、
「そもそも、年を取らせるものではなく、別の効果を与えるものではないのだろうか?」
 と思えてきたのだ。
 浦島太郎のお話は、実は、
「玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった」
 ということで、大団円のようになっているが、それではあまりにも中途半端な終わり方ではないか?
 そもそも、
「苛められているカメを助けて、竜宮城へいくのだから、最後はおじいさんになるというのは、理不尽ではないか?」
 と言われていた。
 確かにその通りであるが、実際には、浦島太郎の話には、
「続きがある」
 ということであった。
 それも、
「悲しいお話ではなく、ハッピーエンドになるお話だ」
 ということであった。
 というのも、
「浦島太郎が、おじいさんになると、そこにカメになった乙姫が現れて、浦島太郎の元にいき、浦島太郎が、鶴になって。二人は、幸せに暮らした」
 というのが、本当の話だという。
 ただ、細かいところはハッキリとしないのだが、あくまでも、
「最後はハッピーエンドだ」
 ということなのであった。
 そう考えると、
「乙姫が渡した玉手箱というのは、どういう意味があるのだろうか?」
 ということである。
 ハッピーエンドとなったのだから、それでいいというわけにもいかない。
 そもそも、玉手箱を開けて、おじいさんになってしまったという話に、どのような信憑性があるというのか?
 確かに、750年くらい先の世界になっていたということであるが、そこで太郎が老人になったところでどうなるというのか、その後、死んでしまったということであれば、それなりに話の辻褄は合うが、
「ただ、老人になった」
 というだけでは、このお話は何がいいたいのか、まったく分からない世界ではないだろうか?
 何かの教訓だとしても、もし言えるとすれば、
「見るなのタブー」
 を破ったということへの戒めくらいしか思いつかない。
「見てはいけない」
「開けてはいけない」
 というたぐいの教えは、古今東西のお話においては、よく言われていることで、その後不幸になるというものなのだ。
 しかし、実際にはハッピーエンドだ。だとすれば、この玉手箱という発想はどこから来たというのであろうか?

                 老医師の趣味

 美亜は、小さい頃、おばあちゃんから、絵本を読んでもらうのが好きだった。
 現代や、西洋の絵本よりも、
「日本お童話やおとぎ話」
 などが好きだったのだ。
 それがあるからか、中学に入ると、
「日本の歴史」
 というものが好きになり、よく読んでもらっていた。
 もちろん、その中に浦島太郎の話もあり、子供の頃はおとぎ話の内容というよりも、おばあちゃんの声が、
「子守歌替わり」
 ということで、ありがたかったのだ。
 小さい頃は、元々神経質だったのか、なかなか寝付けない子供だった。だから、よくおばあちゃんがお話を聴かせてくれることで、眠りに就けたのだ。
 逆にいえば、
「おばあちゃんがいなければ、すぐに眠りに就くことができなかった」
 といってもよかったのだ。
 だから、おとぎ話の聴いた内容は、正直小さい頃には分からなかった。
 というよりも、
「理解できなかった」
 というのが、正解だったであろう。
 当然、浦島太郎の話も分からなかった。ただ、
「何となく怖いお話」
 というイメージだったのだ。
 もっとも、怖いお話というのは、浦島太郎に限ったことではなく、他のお話も思い出してみれば、怖かった気がする。
 それも、
「漠然と怖い」
 というイメージで、おとぎ話を聴いていた。
 だから、余計におばあちゃん子になってしまい、夜怖くて一人でおトイレに行けなかったくらいだった。
 さすがに、小学生の高学年になってくると、そんな怖いという感覚がなくなってきた。
 というよりも、どちらかというと、ホラー的な話がある時突然に好きになり、
「あれ? あなた、ホラーのようなお話って、ダメだったじゃない?」
 と言われるようになったのを思い出したのだった。
 言われてみれば。確かに怖い話が嫌ではなくなったある時期があった。それがいつだったのかというと、たぶん、例の、
「かかしのような妖怪少年もお話」
 を聴いてからのことではないか。
 あの頃、まだ子供だったくせに、
作品名:パンデミックの正体 作家名:森本晃次