タイトルの「悪魔」
「要するに、その時に、コウモリというのは、卑怯者で、俺たちとは合わないというようなことになったんだろうな。だから、コウモリは、誰の目にも止まらないように、暗くて陰湿な洞窟の中で、暮らすようになったというんだ。だから、明るさを必要としないので、目はあっても、視力が退化して、目が見えなくなってしまった。だけど、それだけ暮らしていけないので、超音波を出して、その反射で、物体を感じるという方法になったんだね。それが、いずれは、レーダーの基礎になったり、ドップラー効果との関係性を示したりとかで、人間にも、深い関係になったということだろうね」
というと、
「なるほど、コウモリの話を聴いていると、意外と、コウモリほど人間臭い動物はいないという感じがしてくるね」
と一人がいうと、
「そうだね。だけど、もっといえば、コウモリ以外の他の登場人物いや、動物皆が、人間臭いといえないかい? 戦をするのだってそうだし、戦を辞める大義名分だって、いかにも人間らしいといえないだろうか?」
ともう一人がいうと、それを聞いた話し手が、
「そうそう、確かに、獣が戦争とするという発想自体が、本当は間違っているんだよ。そもそも、人間以外の動物は、自然の摂理のような、食物連鎖でなければ、殺生はしないだろう。私利私欲のために、同族であっても殺し合うというのは、人間だけであって、それだけ智慧があるということなのか、それとも、神に近いということなのか」
というと、聞き手の一人は、
「そうそうその通り、神の世界としての、ギリシャ神話に出てくる、オリンポスの神々というのは、それこそ、人間臭いことはないじゃないか。嫉妬深いし、自分の不倫をごまかすために、人間社会の一つの国を、簡単に滅ぼすくらいだからね。要するに、力があるものに、嫉妬心などを与えると、下等動物は、どうなってもいいという発想になる。それこそ、人間の発想なんじゃないか?」
というのだった。
「だけど、そのオリンポスの神を創造したのは、人間なんだよな。本当にいるとは思えないので、そう思うと、あの話も、結局は、人間社会の権力者に逆らったりすると、どうなるか分からないということを、人間の創造主とされる神になぞらえることで、自分たちの支配を絶対的なものにしようと考えたのだと思えば、分からなくもないね」
という。
すると、さらにもう一人の聞き手が、
「なるほど、まるで、合わせ鏡のようだ。鏡に写った自分が、また反対側の鏡に写る。それが永遠に続いて、決してなくなることはないという発想に近いような気がするんだけど、どうなんだろうね?」
というのだった。
「これは、あくまでも、人間社会においての、身分制度の正当化が一番の目的だろうが、逆に、主君というものは、何をするか分からない。もっといえば、何をしても許されるということになるのかも知れないな」
と、いうのだった。
そんな話をしてから、ある程度の時間になったので、3人は、そこでお開きになった。今日の話で一番だったのは、この
「卑怯なコウモリ」
という話で、結構盛り上がってきたので、その後も結構話したのだろうが、いかんせん、酔いが回って、どんな話をしたのか、皆曖昧な様子だったのだ。
ただ、この3人は、それぞれ同じ仲間というわけではなく、たまたまこの店で知り合ったという仲間だった。
「世界的なパンデミック」
が起こってからしばらくは、
「おうち時間」
と言われたり、
「宅飲み」
などということもあり、それぞれ、会うこともなかったが、ある程度緩和されるようになってから、またこの店で会い、前のように会話が弾むようになるまでに、そんなに時間が掛かるわけではなかったのだ。
だから、皆家もそれぞれバラバラで、店を出た瞬間から、方向が皆バラバラということであったのだ。
一人は、そのまま、私鉄の駅に向かい、もう一人はバスセンターから、そして、もう一人は地下鉄の駅に向かうという感じだったのだが、いつもは地下鉄ですぐに帰るはずなのだが、
「久しぶりにいい酒って感じだな」
と、普段に比べて、飲んでもいたし、ほろ酔い気分になってしまったこともあって、
「すぐに帰るのももったいないな」
と思い、ただ、その後はどうしようかと思い、一度、横丁にある、小さな祠にまずお参りすることにした。
そこは、戎神社の一種の、
「分家」
のようなものだと聞いたことがあった。
その証拠に、お供えは笹の葉だった。
「商売繁盛、笹持ってこい」
という歌があるように、商売繁盛の神様である、いわゆる、
「えべっさん」
といえば、笹の葉がよく似合うというものだ。
そして、その奥はというと、ちょうど、第二次の建設計画として、ちょうど、今建設が始まって、外観だけは、だいぶ出来上がって状態になっているところだったのだ。
普段だったら、
「こんなところに迷い込んだら。怖いよな」
ということで怖い思いをするのが嫌で、それこそ、
「一目散に逃げ出す」
といってもいいところであった。
しかし、
「えべっさんにお参りしたんだから、怖いはずなどないよな」
と自分に言い聞かせて、何かに誘われるように、フラフラと迷い込んでいたのだ。
「このあたりには、何があったんだっけ?」
と、すっかり、様相を変えてしまった街並みから、昔のイメージを思い出すのは、酔った頭では、かなりの困難さを呈していた。
「まあ、いいか、とりあえず行ってみよう」
とばかりに、廃墟を巡っているというよりも、廃城後の、昔城があった城址が公園になったというイメージを抱いて、そのあたりに入り込んだのだった。
入ってみると、想像以上に真っ暗だった。
正直、先ほどまでのほろ酔い気分は、ほとんど冷めてきているような気がした。
しかし、今年は、例年になく、温かいので、少々の風が吹いてきても、
「寒い」
という感じになるわけでもなかった。
ゆっくり歩いていかないと、足元がおぼつかないのは、いつでも同じで、途中に立ち入り禁止のひもが掛けてあったりしても、気付かなかったら、そのままひっくり返ってしまうということで、気を付けなければいけないところだったのだ。
潮の香り
酔いも手伝ってか、フラッと入ってしまったが、一気に酔いが冷めたのは、急に冷たさを感じたからではなく、生暖かく、それこそ、
「生臭い臭い」
というものを感じたからだった。
その生臭さを感じる時というのは、
「雨が降る」
ということが分かる時であった。
その時に、何か、石のような臭いがするのだ。嫌いな臭いではないのだが、その臭いを感じると、身体がべたべたしてしまうような湿気が感じられ、気持ち悪い。
そう、
「海の潮のような臭い」
という言い方をすれば一番いいのか、気分的に、そういう感覚になるのであった。
海の香りというよりも、磯の香りと言った方がいいのか、彼は子供の頃から、実はその潮の臭いが苦手だったのだ。
それは、小学生の頃、よく夏になると、親が海に連れていってくれた。一泊旅行で家族全員出かけるということもあったが、それよりも、母親が、自分だけを連れて行ってくれることが多かった。