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死体発見の曖昧な犯罪

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 15代将軍足利義昭は、信長の援護によって、上洛し、将軍に就くことができた。
 しかし、実際には、足利幕府再興を考える義昭と、
「足利幕府を利用する」
 としか考えていない信長との間に大きな開きがあっただろう。
 ただ、信長は、基本的には、足利幕府を立てて、自分は貿易で儲け、今の地位から、天下人の力を手に入れるということを考えていたのかも知れない。
 自分が将軍になるという考えを持っていなかったのは、その後の足利将軍追放の後も、その動きがなかったことで分かるというものだった。
 そういう意味での戦国大名は、果たして皆、将軍となって幕府を開くという考えでいたのだろうか?
 足利幕府を見ていれば、幕府を立てるということがどれほど大変なことか分かってくるだろうからである。
 鎌倉幕府にしてもそうだ。
 あれは、将軍よりも、執権が力を持っていたという特殊性があるが、執権がその権力を握るために、邪魔になる御家人たちを、片っ端から潰していったではないか。
 初めての武家による幕府政権。最初は源氏を担ぎ出したが、源氏の将軍が初代以外に弱いことが分かると、当初の考えであった、
「坂東武者の国を作る」
 という方に方向転換を行った。
 当時の執権であった、北条氏が中心になって、邪魔な御家人を、ことごとく潰していく。その後における、江戸幕府の、2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代に行われた、いわゆる。
「改易騒動」
 に見られることではなかったか。
 そもそも、その悪影響が、
「浪人の大量出現」
 ということになり、街が、取り潰された家に仕えていた家臣たちであった。
 お家が取り潰されれば、失業するのは当たり前のことで、それが、その後の幕府の財政逼迫にも影響してくることになるのだから、あまりにも急激な改革であったり、方針というものは、いかに危険を孕んでいるかということであった。
 もっとも、それだけ戦国時代というものが、激しい群雄割拠の時代であったのかということを物語っている。
 それを思うと。
「元和堰武」
 といって、戦国時代の終焉を宣言した時の家康は、誇りに思っていたことだろう。
「ひょっとすると、家康の最終目標はそこにあったのかも知れない」
 と思える。
「徳川の世を盤石にする」
 というのは当たり前のことであるが、それだけであれば、これまでの天下人ができてきたことだった。
 しかし、秀吉もあれだけ平和な時代であったにも関わらず、たった1代ですぐに戦国の世に戻ってしまった。
「死後の混乱が収まらなかった」
 というのも、その一つの理由であろう。
 そんな時代を超えてきて、この城は江戸初期に建てられたもの。元々、
「天守は存在した」
「存在したが、幕府に配慮し、取り壊した」
「最初から存在しなかった」
 などと言われているが、実際には天守台も残っていることから、2番目の説が有力だ。自治体は、模擬天守としても、再建の意思はないようだが、天守台もあることからもったいない話でもある。
 ただ、それ以外の遺構はいくつか残っていて、西の守りの城門もしっかり残っていることだけでもよかったといえよう。
 そもそも考えれば、このあたりは大東亜戦争の大空襲で、ほとんどが焼け野原になっていたという。城址も完全に空襲の範囲に入っていたのに、それでもいくつかの櫓が無事だというのもすごいものだった。何しろ、
「ほとんどの建物が焼夷弾で燃え尽き、学校も、10校ほどあったものが、残ったのは、2校くらいだ」
 というから、かなりのものだったようだ。死者は1000人に満たなかったというが、ほとんどの人が焼け出される結果となり、復興も大変だったことだろう。
 それでも城が残ったことは、市民に勇気と希望を与えたのではないかと思うと、その役目は大きなものだった。
 そんな城門が残る中で、死体が発見されたのは、早朝のことだった。
 城址公園は、二つに大きく別れていて、ランニングコースになっているのは、外堀側で、そっちには、
「城だった」
 というものはほとんど残っていない。
 完全に、池になった部分は、市民の憩いの公園になっていて、池の上ではボートを楽しんだり、途中には浮御堂のものがあったり、池の中を通れるようになった道があることから、丹後宮津の、
「天橋立」
 を思わせる。
 さらに、一番奥の方には、日本庭園と、美術館があり、ひょっとすると日本庭園が、昔の城下を彷彿させるものとなっているのではないだろうか。
 そして、外堀から、中に入ったところに一本道を挟んだところが、いよいよ、城下町というところか。武家屋敷跡の曲輪であったり、三の丸、二の丸、本丸跡を、残っている石垣に、昔を思わせながら歩いていくと、いよいよ天守台がある。
 さすがに天守台に登ると、街が一望でき、その展望は、天守がなくとも、素晴らしいといえるだろう。
 それだけに、
「天守があれば、どれほどのすばらしさか」
 と思わせるほどだった。
 問題の門は、三の丸から、少し北に、数十メートル言ったところにある。
 そこが、内堀から入った最初の門であり、城の北の守りの要と言われるところであった。
 その横には、見張り番となる櫓も残っていて、
「ある意味、ここが、一番城と言える雰囲気を醸し出しているところかも知れないな」
 と感じさせるところだった。
 それでも、門を超えて少しいくと、官庁街が広がってはいるが、その官庁に社宅のようなところがあるのか、住民も結構いるようだった。その死体の第一発見者は、そんな住宅からの散歩の人だったのだ。
 元々、法曹関係の事務員をしていたのだが、定年退職し、
「ずっとこのあたりに住んでいたので、いまさらどこか他の土地にいくのも、嫌だからな」
 ということで、このあたりで余生を過ごしていた。
 そして、早朝は運動にと、城址公園を歩くのが日課だったのだ。
 さすがに、湖畔公園の外周をジョギングするほどの元気はない。
「わしも、十年くらい前だったら、ジョギングをしたものを」
 ということであったが、50歳を超えた頃から無理をしないように、散歩に変えたのだ。
 それも、大きな近くの城址公園であれば、適度な坂道もあるので、ゆっくりと歩く散歩コースにはちょうどいい。
 昔は天守台も登っていたが、今はそこまでの気力もない。三の丸を軽く回ったところで戻ってくるのが関の山だった。
 その日もいつものコースを歩くつもりで、通称「北の門」に差し掛かったところで、ふと、何か黒いものが落ちているのに気が付いた。
「あれ?」
 と感じたが、最初は、何かシートのようなものが落ちているのかと思ったが、近づくにつれて。何か見覚えのあるものに感じられた。急に背筋に寒気を感じ、それが人間であると気づいた時には、情けなくも、その場から立ち去りたい気分に陥ってしまったことを後悔していた。
「やっぱり人だ」
 と思うと、その場から立ち去れなくなったと思うと、思わず誰かに助けを求めようと思ったが、この時間歩いている人は、なかなかいない。それを思うと、勇気を出して近づくと、果たしてそこにいるのは、やはり人だった。胸を刺されているようで、ビクともしない。動けないその状態で横を向いて倒れている、
作品名:死体発見の曖昧な犯罪 作家名:森本晃次