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死体発見の曖昧な犯罪

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 などというのも、今ならウケるかも知れないと思う。
 今の時代、犯罪というものが、リアルなところでは、
「軽くなっている」
 といえるのではないだろうか?
 世間に対しての不満であったり、やり切れない気持ちを抑えることができずに、犯してしまう犯罪。
 それは、身勝手な動機などから、
「こんなやつに、情状酌量などありえない」
 と思うような犯罪も多いことであろう。
 たとえば、
「世の中に失望し、死刑になりたいから、誰でもいいので、殺してみた」
 という犯罪も結構多い。
 または、
「自分が好きになった相手がいうことを聞いてくれないので、殺してしまう」
 という、一種のストーカー犯罪などであり、共通しているのは、
「動機の中に、被害者が出てこない」
 ということだ。
 普通、殺人などというと、被害者に対しての復讐であったり、妬みであったりというもので、
「あの人を葬り去る」
 ということで、
「被害者あっての、動機であり、殺人事件のはず」
 ではないだろうか。
 しかし。実際には、最近の目立った犯罪の中には、
「都会のど真ん中での通り魔的な犯行」
 というものだ。
 確かに、戦前や、戦後の混乱時期には、不特定多数を殺害するという。
「通り魔的な犯行」
 というのも多かった。
 しかし、それも、
「現金を奪う」
 という、自分にとっても、のっぴきならない理由で殺しに至るということが多いだろうから、
「動機がない」
 というのとは少し違う。
 なぜ、
「死刑になりたいので、犯罪を犯す」
 ということなのだろうか?
 そんなに死にたいのであれば、自分で勝手に死ねばいいわけで、関係のない人を巻き込んで、
「死刑になりたい」
 という心境が分からない。
 自殺の方が、自分で自分の命を好きなタイミングで殺めればいいわけで、犯行を行って捕まれば、死刑になる確率もゼロではないとして、長い間の裁判をへて、
「死刑に処する」
 ということになったとしても、死刑執行までには、さらに年数が掛かるのだ。
 しかも、忘れたことの執行なので、別に話題になることはない。
「ああ、そういえば、死刑囚がいたな」
 として、法務大臣が、死刑執行の判を押すことで、後は、執行部隊がやってくれるだけだ。
 その間の気も遠くなるような期間、何を考えるというのか、ひょっとすると、
「大変なことをしてしまった」
 と、後悔の念に駆られるかも知れない。
 しかも、後悔の念に駆られたとして、いまさらそれを口にしてもどうなるものでもない。
「ああ、俺はもう死刑なんだ」
 と考えると、急に恐ろしくなることもあるだろう。
 気も狂わんばかり。いまさら後悔しても、謝ったり、何をしても、事態は覆ることはない。
「俺は、今は命があるが、死刑が決定しているので、このまま生き続けることはできない。命が今はあるというだけで、未来はないのだ」
 ということである。
「あれもしたかった。これもしたかった」
 と、犯罪など犯さなければ手に入れられたものを、無理強いだと分かっていても、どうしても想像してしまう。
「どうして俺は死刑になりたいなんて思ったのだろう?」
 とそれが普通の感情である。
 このまま生き続けることはできない。心変わりを誰に解いても、もう誰の心にも刺さらないだろう。
「俺は透明人間になってしまったんだ。誰にも見えない透明人間。いまさら何を言っても、死にたくないいいわけでしかないと思われるに違いない」
 確かにそうだろう。
「俺はこのまま死んでいく。中には俺のことを小説にしようと思っている人もいるかも知れない。もし取材にくれば、答えてやろう。俺に残されたこの世でのやり残したことなのかも知れない」
 と思う。
 ただ、自分が答えることが、果たして取材している人が求める答えなのだろうか?
 彼らが求めているのが何なのか、正直分からない。
 一つ言えるのは、
「後悔の弁などいまさら聞いても、何の意味もない」
 ということである。
「それくらいの文章なら、俺にだって書けるさ」
 ということであれば、小説など書く意味はまったくないといってもいいだろう。
 探偵小説というものは、そんな死刑囚の言い訳などを聞きたいわけではなく。きっと、
「何を想って、こんな事件を起こしたのか?」
 ということであろう。
「自殺ではなく犯罪を犯す」
 そこが聞きたいのだ。
「この男にとっての人生の機転」
 つまり、そんな聞いた話をそのまま描くのではなく、
「読者が興味を引く内容」
 というものを書くことになるのだろう。
 読者が興味を持つようなものは、正直、そのまま書いたとしても、客観的にしかかけず、それを作家が自分の中で租借し、
「もし、自分だったら」
 あるいは、
「自分に置き換えてみたら」
 というような話になってくるのであろう。
 小説家の中には、
「取材が嫌いだ」
 という人もいた。
 そして、その人は、
「取材は、ノンフィクションを、事実としていかに書けるかということが大切なのであって、私のように、ノンフィクションが嫌いで、フィクションばかり書いていると、取材というものが、まったく意味をなさないことに気づくからだ。
 ということであった。
 小説というものを、いかに書いていくか、それはノンフィクションでは無理なのだ。
「起こった事実だけを忠実に書くのだから、それも当然で、事実以外は、ノンフィクションでは書いてはいけないのだろうか?」
 と考えるのも、無理もないことなのか、
 確かにノンフィクションは、自分の意見を織り交ぜることが大切だが、フィクションの場合は、それを前面に押し出すと、話がまともにできなくなってしまうのだった。
 小説というものを書いていると、
「どこに、落としどころを見つけるか。そして、フィクションは無限であって無限ではないという究極の話をいかにして作れるか?」
 ということが大いに問題だといえるのではないだろうか?
「架空の空想物語の中にいかに自分の意見を織り交ぜて、バリエーションを聞かせるか?」
 ということが今の時代の小説なのだといえるのではないだろうか?
 戦後の探偵小説というと、いろいろなトリックが考えられた。
 例えば、
「心理トリック」
 などというのも、一つだった。
 密室トリックなどと一緒に用いられることも多い。
 というのも、本来密室トリックというのは、基本的にありえることではない。
「出入り口が一つもないのに、中で人が殺されていて、そして犯人が忽然と消えていた」
 などということはありえないということだろう。
 そこで考えられるのは、一つが、
「機械トリック」
 と呼ばれるものだ。
「針と糸を使い、カギを密室内のどこかに置く」
 というものだ。
 しかし、この場合は、
「密室なのに、どうやってカギを部屋の真ん中だったり、被害者のポケットなどに置けたのか?」
 ということで、あくまでも、カギがありきの場合のトリックで、カギが問題だとすれば、容易に、そのトリックは看破されるものだろう。
 昔の小説ならいざ知らず、いまさらそんな密室トリックを考えているとすれば、それは、かなりの考えの甘さというべきではないだろうか?
作品名:死体発見の曖昧な犯罪 作家名:森本晃次