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死体発見の曖昧な犯罪

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「奇跡の復興ができた」
 というのも、天皇制ありきだったからなのかも知れない。
 もっとも、朝鮮戦争などの外的要因のあったこともいなめないが、それだけではなかったのも確かだった。
 だが、逆に戦争中は、いかにも天皇は、
「神も同然」
 ということで、
「天皇のために死ぬことは、一番国を守ったということになる」
 と言われ、
「死」
 というものを正当化するために、下手をすると、天皇が利用されたとも言えなくもないだろう。
 だから、戦争中は、いかに本が絶版の憂き目にあっていたとしても、戦争が終わり、占領軍から、
「押しつけの民主主義」
 を教え込まれたことで、自由が復活してきた。
 そういう意味で、戦争における情報統制も、出版や表現の自由も、次第に保証されることになる。
「これからは、俺たちの時代だ」
 と、探偵小説作家が叫んだとか叫ばないとか、そんな時代になってきたのだった。
 そんな中において、数名の探偵小説作家が出てきた。中には変格探偵小説家もいただろうが、どうしても、本格探偵小説家が多かったようだ。
 戦時中の激戦になってきた頃、探偵小説を書くことは禁止で、発売されていたものも、絶版となったりした。だから、多くの探偵小説家が別のジャンルの作品を書かなくてはいけなくなったというのも無理もないことで、戦争肯定小説であったり、中には時代劇風の時代小説を書いていた作家もいた。
 その中で、苦肉の策として、探偵っぽい人を登場させて、そこで謎解きのようなことをさせるようなことをしたりしていた。
 だが、それも当時はなかなか売れなかっただろう。何しろ、本を読むなどという時代ではなく、そのうちに、本土空襲が激しくなると、その日一日、
「生き延びられたことに感謝」
 という、今となっては想像も絶する時代だったのであろう。
 そして、戦争が終結し、占領軍による、
「自由の解放」
 が行われ、日本でも、作家活動が、許されるようになった。
 探偵小説家が、
「俺たちの時代」
 と叫びたくなったのも、無理もないことだろう。
 ただ、実際に小説を書いていくと、作家の中には、戦地に赴き、復員してきたという人もいたりする。
 彼らは、実際に目の前で戦場を体験し、
「殺すか殺されるかというギリギリのところで生き残ってきた」
 といってもいいだろう。
 つまり、彼らの感覚は血や死体などというものに、感覚がマヒしていて、原稿用紙の上で、死体を転がしたり、大量の血を流してみたりということに、鈍感になってしまっているのではないだろうか?
 何といっても、人の命が奪われるということを意識することなどなく、自分の作る小説が、いかにホラー色が豊かで、読者の興味をそそるかということを目指していた。
 しかし、書いているうちに、次第に冷静にもなってくるもので、最初は勢いで書いていたものが、今度は、書き続けることに精神がマヒしてきたのか、それとも冷静になったことで、精神的に余裕が出てきたのか、ふんだんに血を流すということよりも、ミステリアスな部分での、動機であったり、殺害のトリックなどにその関心が移っていったのだ。
「どういうものを書きたい」
 ということを目指すようになり、自分の中で、小説のパターンであったり、作風の方針のようなものが固まっていく。
 それによって、どのようなストーリー展開となるか、その作家の作風テクニックに変わってくるのであった。
 ただ、これは、すでに戦前の探偵小説作家に提唱されていたことであったが、
「基本的なトリックというのは、ほとんど出尽くしていて、あとは、それを使うためのバリエーションでしかないんだ」
 ということを言っていたのだ。
 確かに、トリックなどと言えるものは、そんなにたくさんあるものではない。
 いくつかのパターンに分けられ、それも、角度によって同じトリックでも、分類によって違う括りになることだってあっただろう。
 中には、連続殺人を複数のトリックで結ぶ探偵小説も多く、それらが長編小説として生きてくることになる。
 探偵小説というものは、そのうちに、
「推理小説」
 と言われるようになり、ミステリーという範囲の広いものになってきたのだった。
 探偵小説のブームが戦後しばらく続いてきたが、そのうち、社会の混乱が収まってきて、
「もはや戦後ではない
 と言われた、昭和30年代など、復興が加速していき、次第に、高度成長期へと繋がっていくのだが、その頃の探偵小説には、
「社会派」
 と呼ばれるものが出てくる。
 当時の社会風俗や、会社組織、さらに、もっと幅の広いところでの、社会的な汚職事件であったり、政治家との癒着などという次第に今の時代に繋がるような作品が生まれてくる。
 そのうちに、今度は、
「安楽椅子探偵」
 と呼ばれるようなものが出てきて、探偵や警察でもない職業であったり、立場の人間が、推理を行うというものである。
 特にマンガの世界でもそういうものが出てきたりしたので、いまだにドラマなどで、そういう種類のものが多くなっている。
 これは、一つには、
「作家が生き残りという意味で、自分の作風に一つのパターンを生みたい」
 という意識があってのことであろう。
 たとえば、
「鉄道マニアが好きそうな、時刻表を使ったアリバイトリックなどの、いわゆる、トラベルミステリーなどというのは、第一人者がいて、その作家の代名詞となった」
 というものである。
 その作家は、何もトラベルミステリーしか書いていないわけでもないし、逆に他の作家もトラベルミステリーを書いていないわけでもなかった。
 しかし、
「トラベルミステリーといえば、この作家」
 というイメージが張り付いてしまったので、その作家の他の作品が売れていないわけではないが、どうしても、印象が薄かったりする。
 また他の作家がトラベルミステリーを書いたとしても、それは、結局、どこまで行っても、二番煎じでしかない。
 その作家のたくさんある作品の中に、
「たまたまトラベルミステリーのような作品もあった」
 ということであれば、別にかまわないが、その人が、
「自分もトラベルミステリー作家だ」
 と言わせたいのであれば、同じような作品では、どうしても二番煎じということを拭えないので、どんなにいい作品であっても、イメージは薄いだろう。
 それだけ、芸術作品における、
「レジェンド」
 というのは、
「どれだけ、その壁が厚くて高いのか」
 ということになるであろう。
 小説家とは、それだけシビアなもので、それは、幅広い芸術家すべてにいえることではないだろうか。
 探偵小説は今は飽和状態になってしまって、下手をすれば、
「何を書いても、どこかで読んだことがあるような小説だ」
 と言われかねない。
 そういう意味で、新鮮さがある小説であれば、ある意味、ウケるのかも知れない。ただ、今は、混迷期なのかも知れないと思うのだ。
 ひょっとすると、他のジャンルの作品と組み合わせるような、そう、ホラーやオカルトと組み合わせるというのも一つの手かも知れない。
 そういう意味では、戦前に流行った変格探偵小説と言われた、
「猟奇殺人」
「耽美主義」
作品名:死体発見の曖昧な犯罪 作家名:森本晃次