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遺伝ではない遺伝子

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 相手は。未来において起こってくる今の人類など、最初から眼中になかっただろうから、きっと、生まれてきた我々という人種の存在に否定的だったのかも知れない。あくまでも、勝手な想像でしかないので、過去の種族が、せめて自分たち人類の元となっていて、未来に存在している自分たちが、いずれ過去に存在した高等動物よりも、上の存在になるのだというような妄想と言ってもいいものなのだろう。
 どうしても、
「各論的に見ていき。最後に総論に辿り着きたい
 と感じていた。
 まずは、前提として、
「彼らが、現在の人類よりも、高等な文明を持っていた」
 ということ、
 その根拠として、当時の地球は、まだまだ発展途上の、原始的な動物が多く生息していて、その中には恐竜のような驚異的な力を持った種族であったり、原生林のようなジャングルも、恐竜の大きさに合わせたかのような大きさがあった。
 ということになると、彼らは、人間とは比較にならないほど大きな生物であり、限りのある大きさの地球というものを、今の人類よりも、少し小さく感じていたのかも知れない。
 そして、地上世界に住むにしても、地底に人類の世界を築くにしても、今のような
「住みやすい気候」
 ではなかっただろう。
 ただ、これも、今の人類だから見えることであって。当時の人類は、
「この世の中が一番住みやすい世の中だ」
 と思っていたかも知れないのだ。
 ということは、どういうことなのかというと、
「彼らは肉体的にも、今の人間よりも、はるかに強靭だったのではないか?」
 といえるということだ。
 それを認めたくないのは、
「神は二物を与えず」
 という言葉から発想されるものだからではないだろうか。
 つまり、
「頭脳は、今の人類に比べて、はるかに発達しているのに、肉体まで強靭だというのは、あまりにも都合がよすぎる」
 と考えるのであろう。
「いや、本当は、人類至上主義を訴えたいことで、本来は、過去に、自分たちよりも発達した文明があった」
 などということを認めたくないということなのであろう。
 それは、今の人間の特徴であり、他の動物にはないことだということで、悪い側面もありながら、
「一番人間らしい感情」
 といえるのではないだろうか。
 そんな彼らには、どんな感情があったというのだろうか? 今の人間のような嫉妬心があったのだろうか?
 嫉妬心というのは、人類だから存在するものではないだろうか?
 男女の関係において、思春期、つまりは他の動物であれば、発情期というもの。
 他の動物だって、求愛行動を取るということは、研究によって明らかになっている。
 それぞれの動物の種族から、その品種くらいまで落として、その求愛行動が分かるようになってきているではないか。
 そういう意味では、そのうちに、
「動物には感情というものが存在するというのだろうか?」
 あるいは、
「感情が存在したとすれば、そこからの発展形である嫉妬というものは、生まれるのであろうか?」
 ということが分かってくるまでは、時間の問題なのかも知れない。
 そのあたりの、
「同時代における他種族の感情や、その反応」
 ということが、少しでも分かってくれば、
「過去に人類と同等か、それ以上の種族が存在したかどうかということを、ある程度まで、証明できるのではないか?」
 というものであった。
 嫉妬心というものを、持っていたとすれば、実は嫉妬心というものには、異性に対しての、
「本能」
 というものとは、少し違う、
「欲」
 というものが存在したのではないかと、今の人類なら考えるであろう。
 何かを考えるということは、まず最初に、
「比較」
 というものから入るものだ。
 かつて存在した、
「人類に相当する」
 といえる種族であれば、今の人類と自覚対象になりえるはずだからである。
 その存在すら疑問視されているものだけに、どこまで比較できるかというのは難しいが、
「学者先生」
 や、その道の権威である、
「博士」
 と呼ばれるような人たちであれば、容易に検証できるものではないだろうか?
 現在においての人間の嫉妬として、出世欲であったり、
「存在意義を最大に見せたい」
 あるいは、
「成功者となりたい」
 などという、これも一種の欲というものが、嫉妬を生むのである。
 だが、これは悪いことではない。そもそも、嫉妬心というものは悪いものだということではないはずだ。
 嫉妬心というものを言い訳にして、犯罪が成立してしまうことで、嫉妬を悪いことのようにいうが、悪いのは犯罪行為であり、嫉妬ではない。嫉妬心というものを否定してしまうと、発展性がそこで止まってしまうといっても過言ではないだろう。
 そのことを考えると。
「過去の種族は、そんな嫉妬心すら感じないほどに自分たちに自信を持っていたのかも知れない」
 と言えないだろうか?
 自分たち個人個人には自信というものが満ち溢れていて、まわりに嫉妬をするというのは、自分に自信がないからだ。
 何かに成功したい、手に入れたい。
 と思えば、
「まずは努力をすること」
 そこから始まるのではないだろうか。
 それを最初から身に染みて分かっているのであれば、
「嫉妬する暇があれば、努力をする」
 と考えることであろう。
 だから、彼らは、
「お互いを助け合う」
 ということはしない。
 今の人類から見れば、
「何て冷たいんだ」
 と感じるだろうが、それは違う。
 お互いに助け合うということを、意識することなくできているということであり、それぞれに自信をもってやっていることで、
「助け合う」
「まわりに気を遣う」
 などという感情はなくなり、それは持って生まれた本能だとでもいうような感覚になっているに違いないのだ。
 ということを考えていると、
「やつらは、感情も本能の中に取り入れることができる種族で、それが、自然とそうなったことなのか、それとも、彼らの科学力のなせるわざなのか、そのあたりはよく分からない」
 といえるのではないだろうか?
 そうなると、分からないことが多いわけだが、もし、本能に吸収される以外の感情を持っているのだとすれば、
「彼らは、今の自分たちの出現を予知していたことになりはしないか?」
 と感じるのだ。
 もちろん、出現の予知というのは、彼らの中で自然発生したものではなく、彼らの科学力が予知したものなのかも知れないが、その未来人、いわゆる、
「現代人」
 よりも自分たちの方が文明的にも、考え方も勝っているということを、知っていたとしても、無理でも何でもないことなのだろう。
 その感情の中に、少しでも、
「恐怖」
 というものが芽生えていればどうであろう?
 彼らの中に、自分たちがどれだけこの世にいられるかということを分かっていたのかということをどこまで知っていたか? それは科学力を考えれば、容易に想像はつくというものだ。
 今の我々にだって、
「このままいけば、何十年か後には、どのような状態になっているかなどということは、シミュレーションできる時代になってきているわけである」
 人間が快適に生きていける限界、それは、一体どういうものなのだろうか?
作品名:遺伝ではない遺伝子 作家名:森本晃次