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遺伝ではない遺伝子

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 という意味で、表に出ている自分と、中の人とでは、明らかに違っている。
 普通の人は、もう一人というのが、表に現れた人なのだが、躁鬱症や二重人格の人は、さらにもう一人いることになる。だから、そういう意味で、
「中の人」
 という存在の自分というのも、必要不可欠であり、必ず、人間であれば、もう一人いることになるのは当たり前のことだった。
 そんな、躁鬱症というものを、いかに解決しようとするかということが、自分にとっての課題であり、解決できるために、表の自分と、中の人という自分とが、分かり合えなければできるものではないのだった。
 躁鬱症というと、他にもいろいろな特徴がある。
「鬱状態になった時、色を見た時、原色に近く感じる」
 というものだ。
 これは、
「夜見る信号機」
 という感覚が強い。
 だから、夜というと、夕凪の時間のけだるさが終わり、静けさの中に包まれた。朝までは静かな時間のはずなのに、今は、
「眠らない街」
 という表現があるほど、夜といっても昼間と変わらない。
 しかし、信号機だけは別であった。
 昼間は、
「青は緑に、赤はピンクやワインレッドに見える」
 というような信号機だが、夜は原色にしか見えないのだった。
 これはやはり、前述のような、
「鬱状態では遊びが少ない」
 という感覚に通ずるものがあるのだろう。
 つまりは、
「他の色に見えてくるような余裕がない」
 ということを孕んでいるに違いない。
 鬱状態において、原色に近いという感覚を感じると、躁状態というのは、余裕がありすぎるということだろうか?
 そもそも、余裕というものがどういうものなのか分からない。
 おとぎ話にある、
「ウサギとカメの競争」
 というような話のように、
「油断をすると、しっぺ返しを食らう」
 という意味で、余裕も何もないものなのかも知れない。

                 占い師

「人間至上主義」
 という発想は、鍋島の中にもあった。
 前半のお話は、実は、鍋島がどこかから探してきたSF小説に、それなりのネタがあり、そのネタを中心に、自分でも、少し書いてみた小説だった。
 しかし、そんな小説を他人に見せるのは、少し問題があった。特に家庭では、変な新興宗教に嵌っているので、
「俺まで、変なものにかぶれてしまったらどうしよう?」
 という意識があったのだ。
 そんな中で、躁鬱状態を意識するようになったのも、躁鬱がどういうものかを考えるようになったのも、自分がいろいろ小説を考えている中で、自然と浮かんできたものだったことなので、小説の内容を、
「躁鬱」
 であったり、
「人間至上主義」
 というイメージのSFチックなものであったりもした。
 それを思い浮かべた時、親が新興宗教に嵌ってしまったことを考えて、
「どっちにしようか?」
 と考えた時、意識としては、どうしても、
「消去法にしかならない」
 と感じたのだ。
 あまり突飛なことを考えてしまうと、両親が新興宗教から抜けられなくなってしまう。いざとなったら、
「俺が助けなければいけない」
 とまで思っているのに、SFや躁鬱が頭にあっては、どうすることもできないと感じたのだ。
 しかし、逆に言えば、自分がしっかりしないといけないと思い込む必要はない。何と言っても相手は得体の知れない宗教で、
「どうせ、言っていることも、しょせんは、いい加減なことしか言っていない」
 と思うのだ。
 断言してもいいと思ったほどなのだが、その理由としては、
「宗教団体、それも新興宗教となると、目的は、信者を増やすことしかないのであって、それ以外のことはすべて無駄だと思っているだろう。
 何と言っても新興宗教というと、人は多いが金はない。時間もあるようでないのかも知れない。
 そんな風に思うと、一番おタブーは、
「時間と金も無駄遣い」
 ではないかと思う。
 徹底的に合理性を図ったり、かといって、信者に疑問を持たれるようなことをしてはいけない。
 だから、そういう意味で、彼らが目指す信者獲得の基本路線は、
「人間至上主義」
 ということである。
 あの小説の場合は、
「人間以外の動物と比較して」
 という意識からか、地球外生物を意識したりしているわけだが、それが少し範囲が狭まって、いわゆる、
「自分たちの周波至上主義」
 ということになるのだろうが、いきなりそこに持っていくと、さすがに信者も、
「これは怪しい」
 と思うのではないか。
 そう考えると、まずは、
「人間というのは、他の動物よりも偉い」
 ということを考えるようになるだろう。
 しかし、前に読んだ小説とは、少しニュアンスが違っている。相手として考えるのが、神であり、人間を作ったのが神だとして、その神というものを、
「実際に創造し、自分たちを作った」
 かのようにあらわしているのは、人間であった。
 しかも、神というものの正体は分からないのだ。小説でもそのことには言及していない。言及しようにも、その信憑性がないのだった。
 それでも、人間は、神という存在を創造しなければ、存在することすらできない。
「人間の創造主は、人間が作った神だった」
 ということになり、
 まるで、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
 あるいは、
「ヘビの尻尾を自分で飲み込んでいき、最後にはどうなるか?」
 という発想に似ている。
 それこそ、
「マトリョシカ人形」
 のようであり、
「合わせ鏡」
 のようでもある。
 ようするに、マトリョシカ人形も、合わせ鏡に写っている自分も、どんどん小さくなっていくのである。
「マトリョシカ人形」
 というのは、ロシアの民芸品で、人形が真ん中で割れて、中から、一回り小さな人形が出てくるというもので、それを何度か繰り返し。それぞれを取り出して、一つずつの形にすると、どんどん小さな人形ができていくというものであった。
「合わせ鏡」
 というのは、前後か左右に鏡を置いて、そこに写った自分と、さらに自分の後ろには、こちらを向いている鏡がある。そして、その鏡には、こちらを向いているため。後ろ向きの自分が写っていて、さらにそこには、またこちらの姿が写っている自分がいて……」
 というように、鏡の中に、自分と反対側の鏡に写った姿がどんどん続いて小さくなっていくのが、無限に続いているように見えるということで、
「どこか、マトリョシカ人形に似ている」
 ということであった。
 これらの二つは。
「どんどん小さくなっていく」
 ということが特徴である。
 しかし、無限に続いているわけではないのに、無限と思わせなければならない。そうなると結論として、
「限りなくゼロに近い」
 という概念の創造が不可欠であった。
 無限であるには、
「絶対にゼロになってはいけない」
 ということであり、しかし、
「どんどん小さくならなければいけない」
 という理屈もあるのだ。
 ずっと、果てしなく、
「どんどん小さくなっていくもの」
 ということで、
「それは命だ」
 ということになったとすれば、その命は途絶えてはいけないということになる。
 この発想が、いわゆる、
「輪廻転生」
 という発想として、もし、
作品名:遺伝ではない遺伝子 作家名:森本晃次