遺伝ではない遺伝子
と、再認識しなければいけないのではないだろうか。
しかし、夕凪の時間ということは知っていても、実際にはどういう時間なのか知らないというやつも多かった。
「言葉だけが独り歩きをしているんだろうな」
と感じたが、知っているだけ、まだマシなのだろうあ?
しかし、
「逢魔が時」
というのは、そうもいかない。
いわゆる、
「魔物に一番出会う時間帯」
ということであるが、これは、方角にも大いに関係があるという。
そもそも昔から、方角を時間に見立てるということは行われている。
「草木も眠る丑三つ時」
というではないか?
ちなみにこの時間帯も、
「魔物に一番出会う時間帯」
と言われている。
その理由は聞いたことがあった。
「丑三つ時というのは、時間でいうと、午前二時から三時の間くらいだろう?」
と友達から言われ、
「ああ、そうだけど」
というと、
「じゃあ、鬼門と呼ばれる方角というのは、どの方向か知っているかい?」
というので、正直に、
「いや、分からない」
と答えると、友達は、にやりと笑みを浮かべ、まるで、
「鬼の首でも取ったか」
のように、
「してやったり」
という顔をしていた。
「実はその方向というのは、北東の方向なんだよ。ここまでいって、まだ分からないかい?」
というので、痺れを切らして、
「いい加減教えてくれよ」
という。
この友達が、以前から、
「知ったかぶり」
をしたがることで有名だったので、好きなように知ったかぶりをさせていれば、平和であることは分かっていた。
こちらが、降参したかのように、少し苛立って見せると、その効果は絶大で、友達は、有頂天になって話始める。
「時計を、方角に見立ててみればいいのさ。0時が北になって、6時が南になるだろう? 3時は、東になるわけだから……」
と言ったところで、やっと、鍋島も、
「あっ」
といって、驚いて見せる。
しかし、この時の驚きは、半分は本心だった。
「ああ、なるほど、だから、1時から二時というと、北東に当たるんだ」
と、感動していうと、
「そういうこと」
といって、いかにも有頂天で胸を張る。
彼が賢いわけでも何でもないが、確かに感動を与えられたのは事実だったので、嬉しく思ったのも無理もないことだった。
それを思えば、気持ちは十分に伝わったというもので、感動もわざとでも何でもなかったのだ。
その時のことを思い出して、丑三つ時を時計に合わせて考えたが、思い浮かばない。
それもそうだ。あくまでも、
「夕日が沈む直前」
というだけで、時間がハッキリしているわけではない。
それは当たり前のことで、季節は巡っているのだ。夏と冬とで、昼の長さが違う。
「逢魔が時」
というのは、時間ではないのだった。
そんなオレンジ色にむせぶ太陽の光を浴びると、それまで掻いていた汗が、急に止まる時がある。
「まるで、身体の夕凪のようだ」
と感じた時、この時がひょっとすると、自分が、
「躁状態から鬱状態に変わる時ではないか?」
と、高校2年生くらいの時から感じるようになっていた。
汗を掻かない時間が、ピッタリ夕凪の時間かというと、そういうわけではない。どうやら、自分の身体と夕凪とは、直接的な関係はないようだった。
身体から噴き出す汗と、汗を乾かそうとするかのように吹き抜ける風を感じると、
「生きてるんだな」
と感じるようになった。
この感覚に、たまに自然の摂理を感じる時があるが、そんな時が、鬱状態のような気がする。
基本的に、感受性の強さは、鬱の時に多かったりする。躁状態の時は、なるべく何も考えない。考えないようにしなくても、考える頭を持っていないと言った方がいいくらいで、余計なことを考えない方が、幸せであることを、頭が理解しているのだろう。
しかし、鬱状態の時はそうではない。
何かを考えていないと、頭だけではなく、身体がいうことを聞いてくれないのだ。むしろ、
「目の前にぶら下がっている問題が一つ一つ解決されないと、先のステップに進めないのである」
そのことを分かっているからか、必死に課題を解こうとする。
しかし、そんなに簡単に解けるくらいであれば、
「鬱状態になんかなったりしないさ」
と、自分の中の人が、そう告げるのだった。
SNSなどをやっていると、本名は使わない。
昔からいわれているのは、ハンドルネームなるものであるが、それは、ネットの掲示板などで使う、
「架空の名前:
のことである。
中には、戦国武将の名前を使って、
「なり切り」
などという使われ方をする人もいるが、鍋島は自分の名前を少し文字っているだけだった。
そもそもが、戦国武将のような名前なので、少々もじったくらいだったら、
「同じ名前があってもおかしくない」
というものだ。
だが、鍋島はそれほどSNSを利用するわけではなく、基本的には、たまにしかハンドルネームを使わなかった。
それでも、たまにハンドルネームを使うことをすると、たまに、自分なのか、ハンドルネームのキャラクターなのか分からなくなることがある。
そんな時、
「中の人」
という言葉を使っているのを聞いた時、気が楽になったのだ。
「中の人」
というのは、
「SNSでは、表の人はあくまでも、ハンドルネームの人間である。しかし、ネットの世界では、基本、有名人や、売名をしたい人間以外は、本名は使わない。だからハンドルネームがあるわけなのだが、SNSで、書き込みをしていても、たまに。ハンドルネームの作られたキャラクターではない。本人の意見を書きたいことがあるだろう。そのために、せっかくのハンドルネームのキャラクターを打ち消さないというために、わざと中の人という言い方をしているのだ」
というのが、ハンドルネームと中の人との関係である。
「ではなぜ、ハンドルネームが必要なのか?」
ということであるが、
今の世の中には、
「個人情報保護」
という概念があり、昔のように、本名を軽々しく口外したりはしない。
それというのは、一番の原因は、ネットの普及から始まるのであるが、ネットの普及によって、遠くの人や遭ったこともない人間と、
「気軽に会話ができる」
というのが、ネットのありがたさであった。
そうなると、こちらには他意はなくとも、相手に悪意があれば、見ず知らずの相手なだけに、いくらでもウソが言えるし。騙すこともできる。
詐欺行為だって、いくらでもできるというもので。
「最初こそ、ここまで巧妙ではなかった。当時としては、舌を巻くほどの鮮やかな詐欺行為が行われていたりした。
インターネットでの、
「コンピュータウイルス」
も、しかりである。
コンピュータウイルスの中には、不用意にパソコンの中で、IDやパスワード、口座番号に暗証番号などと言った情報を簡単に入れていれば、簡単に盗まれてしまうことも結構あったりした。
それを思うと、
「誰も信用できなくなってしまう」
とばかりに、タンス貯金が多くなったりするというのも聞いたことがあった。
そんな鬱状態で、中の人、つまりここでは、
「鬱状態でも躁状態でもない。巣の自分」