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合わせ鏡のようなマトリョシカ

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 空襲の翌日、城が残っているのを見た市民が涙したという話もあるくらいで、本当に、街のシンボルだったのだろう。
 広島などでは、今でこそ、世界遺産として保護されている、
「原爆ドーム」
 であるが、街の復興の最中には、
「危険だ」
 というような理由から、取り壊しが検討されたというが、現在の形で保持できているのは、市民のおかげといってもいいだろう。姫路も同じような意思が働いていたのかも知れない。
 今では姫路も、世界遺産として保護されていて、
「白亜の世界遺産」
 ということで、親しまれているのだった。
 元々姫路城というのは、最初から今の形だったわけではない。
 昔は戦国期からあったのだが、天守などはないところで、ただ、中国地方を目指した時の拠点となることで、当時の黒田官兵衛が、秀吉に城を明け渡したという話が残っているくらいだ。
 現在の城になったのは、関ヶ原の論功行賞によって、池田輝政が転封された時、
「西の大名の防波堤」
 ということで、今のような立派な城郭ができあがったのだ。
 櫓の数もハンパではなく、難攻不落としても有名だった。
 特に連立天守としても有名で、
「日本三大連立天守」
 に数えられ、
「三大平山城」
 にも数えられる国宝にも指定されていたのだった。
 櫓の現存もかなりあり、
「近世城郭の代表的な城だ」
 といっても過言ではないだろう。
 ただ、このような姫路城が現存していることから。
「天守を持ったものが城だ」
 というイメージが強く持たれているのは、少し心外なところもある。
 別に天守は、城主が住むところでも何でもないわけで、
「悪しきイメージを持たせた」
 という意味があったとしても、姫路城の豪華さを否定するものでもなんでもないのだ。
 ただ、実際に、現存、非現存に関係なく、これほどの立派な城は類を見ない。
 なるほど、
「大坂城や江戸城も立派であっただろうが、総構えの中に、あれだけの大都市が建設されているのだから、元々の城をイメージするというのは、実に難しいものだ」
 といってもいいだろう。
 そんな城の事情や、戦国期からの日本の歴史を勉強していれば、結構楽しいものである。特に戦国期、幕末、大東亜戦争の時期というのは、歴史好きにはたまらない時代ではないだろうか?
 後は、
「治承・寿永の乱」
 で、いわゆる、かつては、
「源平合戦」
 といっていた時代だった。
 この時代は、あたかも源平合戦のように見えるが、実際には、源氏同士の戦いというのも結構あり、考えてみれば、平家一門の間に争いはなかった、そういう意味では、
「団結していたのは平家一門」
 ということであり、結構源氏方は、一族でも争いが絶えない家系だったといってもいいかも知れない。
「治承・寿永の乱」
 が起こる原因となった、
「保元の乱」
 でもそうだったではないか。
 崇徳上皇方と後白河天皇方との争いに、藤原摂関家の問題も絡んだことと、武士が台頭してきたことで、混乱した世情であったが、崇徳上皇側に、源為朝、為義親子が絡み、後白河天皇方に、源義朝が絡んだことで、源氏が割れたのだった。
 さらには、その後の、以仁王の、
「平家討伐」
 の宣旨から挙兵した、木曽義仲と、頼朝軍として派遣された、
「範頼、義経軍」
 との間でも、合戦が起こった。
 さらに、平家を滅ぼした義経との間に、
「朝廷からの官位譲渡問題」
 から生じた確執で起こった、
「頼朝による義経討伐」
 まであったではないか。
 武士の世界の確立のためということで、幕府ができた後、頼朝の死後から、鎌倉では、北条氏の暗躍から、数々の血なまぐさい事件が起こったりした。
「梶原景時の失脚」
 から始まって、
「比企の乱」
「畠山重忠の乱」
「範頼失脚」
「二代将軍頼家暗殺」
「義政追放」
「和田合戦」
 とどめが、
「三代将軍実朝暗殺」
 であった。
 これが、約20年にも満たない間に起こったことであった。
「どれだけ、当時の武家政治が不安定だったのか?」
 ということと、
「政治を安定させるために、どれだけの血を求めたというのか?」
 ということである。
「元々が土地というものを保証することにより、家臣たちが、将軍のために兵を出す」
 という、いわゆる、
「ご恩と奉公」
 という絆が、武家政権における、
「封建制度」
 というものだったのだ。
 これが、中世の政治体制であり、江戸幕府が亡ぶまでの、650年間ほど、日本の政治体制だったのだ。
 その後の、
「大日本帝国」
 という国家にして、
「立憲君主の中央集権国家」
 が、100年も続いていないことを思えば、かなりのものだったのだろう。
 もっとも、大日本帝国は、最初から決まった目標に対して突っ走っていたので、壁にぶつかると、ひとたまりもないというのも、無理もないことではないだろうか?
 そんな日本の歴史には、いろいろとターニングポイントがある。
 そんなターニングポイントには、
「人物がいて、事件がある」
 といっていいだろう。
「人物がいるから、数々事件が起こる。事件が起こるから、その事件を中心に、歴史を見る」
 といってもいいだろう。
 歴史というのは、当たり前のことだが、時間軸に沿って進んでいくので、一種の、
「原因と結果」
 のようなものである。
 だから、歴史の中で、たまに
「歴史が答えを出してくれる」
 という言葉を映画などで見るが、果たしてそうなのだろうか?
 前に見たのが、昭和初期に起こった軍事クーデターである、
「226事件」
 であるが、決起軍が、反乱軍として鎮圧されることにあり、決起将校たちが、自分が率いていた隊を、原隊に戻す時、
「我々が正しかったことは、歴史が証明してくれる」
 ということで、あくまでも、自分たちの正当性を訴えるシーンであった。
 ただ、映画だけを見た人は、
「226事件は、皆のために青年将校たちが起こしたクーデターだったんだ」
 と思い込むことだろう。
 実際に、そういわれていたこともあったが、歴史の勉強をしている人は、そうは思わないだろう。
 というのも、
「226事件というのは、陸軍内部の、派閥争いだった」
 というのが、定説だからである。
 歴史の勉強をしていると、そこに行きつくのだ。
 実際がどうだったのかということまでは、正直分からない。しかし、実際に分かっていることだけを研究した今の時点で考えられることは、
「統制派と皇道派という2代派閥の抗争から起こった事件だ」
 という結論に行き着くのだ。
 というのも、それまでに陸軍の動きを見ていると、最初は皇道派が力を持っていて、統制派を軍から左遷する形で権力を握っていたが、今度は、逆に統制派が優位に立つと、皇道派が、肩身の狭い思いをするようになる。
 裏では暗殺事件などの血なまぐさいことが起こっていて、
「血で血を洗う陸軍内の抗争」
 だったのだ。
 そんな時、統制派が軍を牛耳っているのを、皇道派の青年将校が決起して、
「天皇の近くにいて、暴利をむさぼっている連中を懲らしめる」