合わせ鏡のようなマトリョシカ
もちろん、当時は天守などはなかっただろう。石垣や濠も、山の上の要塞なので、そこまでは必要ではない。
空濠くらいはあったかも知れないが、水がないといっても、大きめの土手を作っておくだけで、相手の動きを封じることができ、左右の丘の上から、弓矢の集中砲火では、相手もひとたまりもなかったに違いない。
それを思うと、
「山城が初期の城だったとはいえ、その力は、相当なものだった」
ということは分かるというものだ。
それが、信長の勢力拡大などによって、城下町が築かれたりするようになると、平山城と呼ばれるものが出てきた。
山の上に作るわけではなく、平地の丘のようになったところに築くのだ。平山城は、超過街をつくることもでき、総構えの中に、武家屋敷などの曲輪を作ることができ、巨大な城郭として、近代城郭の基礎となって行ったのだ。
そして、信長が打たれるという、
「本能寺の変」
のあと、羽柴秀吉による、
「主君の敵討ち」
を成し遂げたこと、そして邪魔者である、柴田勝家を破り、さらに、小牧長久手の合戦において、徳川家康を配下にすることに成功したことで、いわゆる天下の統一が、ある程度叶ったといってもいいだろう。
さらに、秀吉は、大坂城を築城した。
金箔を張り巡らせた、日本一の城だった。
ちなみに、今復元されている大坂城は、豊臣時代のものではなく、前述の、
「大坂夏の陣」
で焼失した後に、徳川が築いたいわゆる、
「徳川大坂城」
である。
秀吉の大坂城は、黒塗りだったようで、そこに、金の装飾や、桐の家紋が描かれていたということであった。
この大坂城の武家屋敷は、かなり大きな曲輪であっただろう。
何しろ、全国の大名屋敷があったのだ。そこに、それぞれの大名から人質を出させ、大坂城に住まわせたということだから、それも当然であろう。
そうやって、謀反を起こさせないようにしたのが、秀吉のやり方だった。
そして、この時代において、確立されたのが、
「分業制」
ということであった。
「戦をするのは、自分たちの大名が集めた兵であり、農民は、戦には参加せずに、農作業を行い、年貢をキチンと徴収する」
というものである。
そのために、農民の年貢の量をキチンと決める必要がある。それを目的で行われたのが、
「太閤検地」
であった。
要するに、農地の測量と、戸籍のようなものである。それによって、それぞれの農家の年貢の量が決まってきて、農家も、戦をしている暇はないということであった。
だからこそ、同時に行われた対策として、
「刀狩」
というものがあった。
農民に田を耕す農具以外の槍や刀を持たせておくから、一揆が起こったりする。武器を取り上げることは大切なことで、それは、寺社にも行われた。
秀吉は、信長を苦しめた、一向宗や、比叡山などの僧兵たちのことを忘れてはいなかった。
「やつらに武器を持たせておくと、ろくなことはない」
というものだ。
そもそも、僧兵などというものは、荘園を管理していた寺社が、その荘園を守るために、組織した、
「自営軍」
のようなものだった。
石高制を敷いて、領主である大名に年貢を納めるようになったこの時代に、僧兵というものは、もはや必要ないということの現れであろう。
秀吉のこの改革は、江戸時代になっても、受け継がれていくことになり、大名が藩主になっていく時も、その国の石高で、その勢力を表すようになったというのが、この時代の特徴でもあったのだ。
そして、この時代になると、城ができても、
「戦のための城」
というよりも、
「領主の威厳を示す」
という意味で、いよいよ天守を持つ城が、できてきたのである。
天守があるといっても、城主がそこで暮らすためではない。城主は、本丸に住んでいて、そこで政務を行っているのが一般的だった。
「では、天守の役割は?」
ということになるのだが、そのほとんどは、倉庫のような使い方をしていたというのが、一般的ではないだろうか?
少なくとも、天守のほとんどは床は板張りで、人が住むには狭すぎる。
特に殿様が住むには、本当に狭すぎて、数人入れば一層では、いっぱいになってしまうというものだ。
それが、戦国時代から、安土桃山時代、いわゆる、
「織豊時代」
までの城だった。
秀吉は、築城が好きだったのか、その後、自分が関白に任じられた時、京都に、
「聚楽第」
と呼ばれるたいそう豪華な城を築いている。
この城は、次代の秀次に関白職を譲った際に明け渡しているが、秀次に謀反の罪ありということで処刑し、さらに、家族もろとも全滅させていることもあってか、
「聚楽第の解体」
を行った。
そして、秀次が、この世に存在したことを打ち消すかの如く、徹底的に破壊したと言われている。
そのせいもあってか、聚楽第に関しては、その資料もほとんど残っていない。天守や城郭がどんなものであったのか分からない。
「鳥瞰図」
のようなものは残っているが、それだけでは、大きさや本当の形は分かるものではないであろう。
さらに、秀吉は、佐賀県の名護屋というところに巨大な城を築いたと言われている。
ここは、秀吉が晩年、朝鮮出兵というものを行ったが。朝鮮に渡るための前線基地として、佐賀県の名護屋に城を築いたのだ。
この城には、全国の大名を集めての大遠征軍であったので、それだけの大きな城が必要だったということだ。
考えてみれば、秀吉は
「一夜城」
と呼べれるものを築くのが得意だったと言われる。
岐阜の稲葉山城攻略のために、信長に言われて建造した、
「墨俣一夜城」
さらには、関東の大大名であった後北条氏の難攻不落と呼ばれた無敵の小田原城を取り囲んだ時に作ったと言われる、
「石垣山城」
も一夜城と呼ばれる。
さすがに城を一夜で築くなどできるわけはないのだが、脅威のスピードで作り上げたのは間違いない。そう考えれば、城というものが、どれほど重要で、戦略上、不可欠なものであったのかということが分かるというものだ。
そして、最後に秀吉は自分の隠居城として、京都の伏見に、伏見城を築いている。結局そこで、絶命することになるのだが、伏見城などは、何度も地震で崩れ、再建されている。これも、最後は徳川時代のものだったといえるだろう。
秀吉が、亡くなる前に、遺言として、
「息子の秀頼を頼む」
といってなくなっている。
当時秀頼はまだ幼年であり、政治を見ることなどできるはずもなかった。
秀吉は、徳川家康、前田利家などの有力大名をその任につかせたが、いよいよ家康が、天下を露骨に狙っているのが分かると、利家などがけん制を始めたが、その利家も、亡くなってしまい、徳川を抑えるものはいなくなった。
そこへもってきて、豊臣恩顧の武将たちが、仲間割れのような形になった。
「政務を見る中心」
であった、石田三成に対し、朝鮮への出兵から帰国してきた、加藤清正らの、
「武闘派」
と言われる連中が、不満を募らせていた。
作品名:合わせ鏡のようなマトリョシカ 作家名:森本晃次