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合わせ鏡のようなマトリョシカ

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 まず江戸初期というと、当時は、関ヶ原の戦いで、勝利した徳川家康は、大名にそれぞれ転封をさせ、自分たちの都合のいい配置にした。
 というのも、江戸の近くであったり、主要な土地は、徳川の譜代が務める。
 譜代というのは、三河時代から、徳川家に仕えてきた武将たちで、
「徳川四天王」
 などの主要武将が勤めていた。
 そして、関ヶ原の時になって、徳川側として、東軍に与した大名は、
「外様大名」
 と言われ、領地はそれなりの石高ではあるが、江戸から遠い、四国や九州、東北地方へと追いやられた。
 そんな中で、主要都市の城の普請事業をいうものを、徳川は奨励した。
 というのも、
「豊臣恩顧の外様大名が、いつ、反旗を翻すか分からない」
 つまりは、
「それぞれの外様大名の抑えということで、城を強化することを許した」
 ということである。
 姫路城であったり、名古屋城などもその一つで、外様の中でも、熊本城、福岡城など、九州地区でも、関ヶ原の後に、大改修が行われたり、新たに城を建設したりしたのだった。
 だから、
「天守を持った城」
 というのが、関ヶ原後に、たくさん作られた。
 いわゆる、
「城建設ラッシュ」
 というところであろう。
 しかし、豊臣家に野心があると見抜いた徳川家は、大坂城に入っている豊臣秀頼、淀君などをけん制していた。
 そんな時、家康は、京都の二条城の本丸御殿で秀頼と面会し、
「このままでは、徳川家が危ない」
 と踏むと、今度は、大坂方を揺さぶって、因縁を吹っ掛けてきたりした。
 それに応じないと踏むと、20万の兵を率いて、大坂城を包囲する。
 豊臣方も、
「一戦交える」
 という覚悟で、関ヶ原において、西軍として味方した武将は皆、打ち首になるか、島流しに逢い、駆けつけることはできない。
 そうなると、浪人となった武将たちに、声をかけるしかなく、幾多の猛者が集まってきた。
 その中には、高野山の九度山に流されていた、真田信繁も含まれていた。
 後は、明石全登であったり、後藤基次、さらには、毛利勝永などの名のある戦国武将が集まってきた。
 そこで、大坂の方では、作戦会議の中で、
「大坂城から打って出て、川を氾濫させ、挟み撃ちにする」
 などと、いろいろな作戦が練られたが、淀君は、強行に、
「籠城戦」
 を主張したのだ。
「大坂城は難攻不落」
 ということを言い張って、頑として譲らない。
 淀君の側用人のような形の大野治長も、淀君の作戦を押すのだ。
 そうなってしまうと、浪人たちの作戦は受け入れられない。そこで、真田丸の登場になるわけだが、
「大坂城は、ほとんどが難攻不落であるが、唯一手薄と言われるのは、南の方向だ」
 ということを見抜いた真田信繁は、南に、出城ともいえる曲輪を築いた。
 徳川方の攻撃を引き受ける形で、引きつけておいて、一網打尽という、本来の城のような形であった。
 そんな真田丸の活躍などもあり、一進一退を続ける徳川方は、
「高齢の家康には、戦が長引くのは不利」
 ということで、大砲で、大阪城の天守を狙うように指示した。
 それと同時に、夜になると、城の外から、
「時の声」
 を上げさせ、城内を眠れないようにし、さらに、いつ攻めてくるか分からない状況にしておけば、精神的にお追い詰められるというものだ。
 そこに持ってきての大砲攻撃である。
 大砲の球は、ほとんど届かなかったようだが、運よく天守の一部を貫通し、数名の従者が巻き込まれたことで、淀君が怖気づいたのだった。
 そこで、かねてより、和議の申し込みがあったので、それに乗じて、和議を結ぶことにした。
 そもそも、淀君というのは、
「浅井三姉妹」
 と言われていて、浅井長政の長女:茶々であった。
 彼女は、自分の父親、さらには再婚した柴田勝家、とともに、母のお市の方までも、城で自害をして、城が落とされるという現場を見ているので、よほど大砲の威力が恐ろしかったのだろう。
 それで、淀君は、
「急いで和議を」
 ということになったのだが、これが徳川方の計略であった。
 和議の条件として、
「雇い入れた浪人たちを追放すること」
 あるいは、
「城の外濠を埋めること」
 などという条項があった。
 浪人を追放したのはいいのだが、今度は約束の濠埋めであったが、徳川方が、約束をっ破って、内濠まで埋め始めたのだ。
 これには、さすがに大坂城の方でも抗議をしたが、実際に埋め始めてしまうとあっという間のことで、難攻不落と言われた大坂城は、
「裸城」
 となってしまったのだ。
 これでは勝てるはずがない。
 一度追放した浪人を呼び戻して、急いで戦支度をしたが、とてもではないが、勝てるはずがない。
 さすがの大坂方も覚悟はしたことだろう。
 真田信繁も決死の突入で、家康に、
「自害を覚悟させた」
 と言われるほどに奮戦したが、最後は力尽きて、討ち死にをした。
 後藤基次らも相次いで、まるで死に場所を求めるかのように討ち死にをしてしまい、
「さすがにこれまで」
 ということで、大阪城の曲輪で、淀君と秀頼は自害して果てたのだった。
 大坂城には火がかけられ、そのまま天守は燃えつきてしまった。
 秀吉が、天下一の城ということで築いた大坂城も、これまでだったのだ。
 そんな大坂城が最後に燃えつきると、今度は、
「豊臣という最大勢力がなくなったことで、応仁の乱あたりから続く、戦国の世に終わりがきた」
 ということを家康は、宣言したのだった。
 この宣言として、元号を、
「元和」
 と改め、
「武器を倉庫にしまい、決して使わない」
 という意味の言葉として、
「元和堰武」
 という言葉で、諸大名に宣言したのだった。
 この戦のことを、
「大阪の陣」
 といい、和議が結ばれるまでを、
「冬の陣」
 そして、豊臣家が滅亡した戦を、
「夏の陣」
 と言ったのだ。

                 城の運命

「元和堰武」
 という時代を迎えるというのはどういうことなのかというと、
「もう、戦が起こらない」
 ということであり、
「すべての治安を幕府が握る」
 といえるだろう。
 しかし、実際には、日本全国を幕府が見れるはずもなく、その治安を直接治めるのは、藩ということになる。
 それぞれに藩を設けて、そこで藩主である大名が、政治を担う。それまでも、大名が国を治めるという形は、あったのだが、あくまでも、元々は室町幕府の守護大名だったものが、群雄割拠の戦国時代に入り、戦国大名が起こってきた。
 ここにはいくつかのパターンがあり、
「守護大名がそのまま戦国大名になった」
 というもの。
 これがもっともポピュラーであり、他には、
「守護代や国人が、守護大名に成り代わるパターン」
 さらには、
「奉行や、配下のものが、守護を襲う謀反を起こし、守護を倒して、戦国大名にのし上がるもの」
 それらの行為を
「下克上」
 というが、戦国時代には、至るところでそれらが起こり、戦国大名となっていったのだ。
 だから、城の建設が急務だった。
 最初は、山城が中止だった。山であれば、天然の要害でもあるし、相手が攻めてくるのを、上から攻撃もできるのだ。