合わせ鏡のようなマトリョシカ
実に厄介な攻城であるが、守る方にも、デメリットはある。
何と言っても、攻城軍は、まわりを取り囲んでいるので、
「兵糧攻め」
「水攻め」
などということは、実際に可能である。
「相手が降参してくるのを待つ」
というやり方は、皆殺しにするわけではないので、優しい攻撃に見えるが、実際には、城の中で餓死者の山ができていたりと実に悲惨であるだろう。
何しろ、籠城するには、武器弾薬、食料の補給がいる。
城によっては、城内に、田んぼがあったりするところもあったりするが、なかなかよほど大きな城でもなければ、そんな簡単には、いかないだろう。
さらに、戦国時代城郭が築かれるようになった頃というのは、
「農民を兵士として徴兵する」
というようなことは少なくなってきたので、城内に食料のために田んぼがあるとすれば、その管理は、武士がすることになるだろう。
特に、関ヶ原の時代ともなると、すでに戦国時代は過去のことであり、
「織豊時代」
と呼ばれた時代に、羽柴秀吉が、天下を統一した時点で、
「農民は、田を耕すだけの仕事」
となったのだ。
そのために行ったのが、
「太閤検地」
だったのだ。
そもそも、惣無事令というものが、秀吉によって出されたのは、天下統一によってのことであって、要するに、
「大名間での、私闘を禁じたもの」
ということになっている。
つまり、
「勝手に隣の国に、侵略を目的としたりして、攻め込んではいけない」
ということを基本としているといってもいいだろう。
これは、弱い者を守るというよりも、
「大名の軍隊も、すべては、秀吉の軍隊なので、自分が許可をしない戦闘は許さない」
ということになるのであろう。
関ヶ原の戦いというのは、そんな秀吉が亡くなった後に起きた、
「天下分け目」
と言われる合戦である。
主戦場の関ヶ原というのは、滋賀県と岐阜県の県境に近いところにあり、そこに、いわゆる
「西軍」
と言われる、旧豊臣家臣団で、
「太閤殿下のご意向を守ろう」
という武士団と、
「三成憎し」
であったり、
「これからの世は、徳川の時代だ」
と思っている人が、中心になっていた。
もちろん、三河以来の徳川の譜代であったり、
「三成は憎いが、家康が、豊臣家を立ててくれるというのであれば」
という条件付きで、東軍に入った武将もいる。
豊臣恩顧の大名が東西に分かれて合戦をしたというのが、関ヶ原だった。
決戦は関ヶ原で行われたが、実際には、九州では、黒田官兵衛が、会津では、上杉景勝が、それぞれ挙兵して、関ヶ原以外のところでも、合戦が行われていたりした。
戦は、半日で決着がついた。
「小早川秀秋の裏切りから、日和見だった武将たちが、一気に寝返り、大谷吉継勢に襲い掛かり、横から三成軍を急襲するということになったのだ」
それまでは、一進一退の攻防で、どちらが優勢か分からないくらいだったが、1万もの軍が裏切るのだから、その勢いを止めることができないのも当然だっただろう。
何しろ、
「家康軍には、本隊ともいえる、秀忠軍がおらず、数的優位に立てなかったのは、かなりの誤算だったに違いない」
ということであった。
秀忠軍は、完全に上田で時間を食ってしまった。
何しろ真田昌幸の作戦としては、
「勝つことよりも、相手を足止めする」
ということに、意義があったのだ。
ただ、秀忠からすれば、負けたという気持ちになって、やっと我に返り、本戦への遅延を自覚したのではないだろうか?
城というのは、いろいろ調べてみると結構楽しかったりする。それは、現代に残っている、いわゆる、
「城」
と呼ばれるものと、元々の目的として建てられた城というものの違いを考えると、そのギャップが結構面白かったりする。
実際に、
「今までに作られた城の数が、全国でどれくらいあるか?」
ということを知るだけでも、その数に仰天させられるといってもいいだろう。
「いくつなんですか?」
と聞かれて答える数としては、
「30,000くらいの城がかつて築かれた」
ということである。
この数は、都道府県の数からしても、その比ではない。何しろ、この数というのは、
「全国のコンビニの数の3倍くらいに当たる」
と言われるのだ。
それを聞いただけで、もう、
「都道府県の比ではない」
といってもいいだろう。
だが、この話を聴いてビックリとするというのは、
「城というものの何たるか?」
ということを知らないからだ。
というのも、城というものが築かれた時代を考えれば、少しは想像がつくかも知れない。
「一般的な城」
と呼ばれるものが、
「天守を持った城」
だと思っている人がほとんどではないだろうか?
「いや、城というのは、そもそも天守を必要としない」
と言われている。
城が、闘いのためのものであるということを考えれば、別に天守がある必要はない。店主が築かれるようになったのは、戦国時代が終わりがかった、信長、秀吉などが出てきた時代だったのだ。
「立派な天守を領民に見せることで、その権威を表す」
という意味と、もちろん、籠城のためというのもあったであろう。
しかし、そんな時代になっても、天守のなかった城は少なくない。武田家の躑躅崎館などがその代表例で、前述の上田城にも天守はなかったではないか。
時代によっては、
「天守は、敗軍の将が、腹を切るところ」
とまで言われたところで、実際には、どこまで実用的だったのか分からないだろう。
三の丸、二の丸、本丸と敵兵に攻め込まれれば、もう、ほとんど負け戦は決定的だ。
確かに天守の守りがしっかりしていたりするだろうが、それは落城寸前の、いわゆる、
「風前の灯」
といってもいいだろう。
それを考えると。
「やはり、城主が、そこで腹を切る場所」
ということになるだろう。
どうせ、降伏したとしても、斬首され、晒し首となるのが、オチである。
「首を晒されるという恥を考えれば、武士らしく、切腹をする」
というのが、当時の美学だったに違いない。
中には、
「自分の命と引き換えに、城内の人々の命を保証してほしい」
といって、投降する城主もいただろう。
ほとんどの場合は、
「切腹を命じられる
ということになり、
「領民の命を守った」
ということで、
「武士の鏡」
と言われてしかるべきなのだろうが、なかなかそういう武将がいたと言われないのは、本当に切腹というわけにはいかず、斬首され、晒し首になったのか、単純にその記録が残っていないだけなのか。
想像としては、
「記録が残っていないだけ」
あるいは、
「わざと残さなかった」
ということではないだろうか?
天守は、攻められると、ほとんどの場合は、焼失することが多い。それは、
「城が落ちる」
ということだ。
しかし、天守がなくなるということは、城が落ちた場合よりも、他の可能性の方が結構多い。
というのも、時代的に、
「江戸初期、明治初期、そして、昭和時代」
という時に、それぞれ、そのターニングポイントがあったのだ。
作品名:合わせ鏡のようなマトリョシカ 作家名:森本晃次