合わせ鏡のようなマトリョシカ
必死になって、そのマンガで起こったことを思い出そうとしていたが、不思議と頭の中にインプットされていたのだ。
「そんなに何度も読みなおしたという感覚があるわけでもないのに、実に自然に思い出すことができる」
と思うようにあると、
「俺がこの時代に来たというのも、何かの理由があってのことなんだろうな?」
と考えるようになった。
それが、彼にとっての、
「覚悟」
だったのかも知れない。
彼がいたのは、現代では東京だった。しかし、タイムスリップして出てきた世界は、甲斐の国だという。
歴史が苦手だった主人公ではあったが、
「甲斐の国というと、武田信玄」
ということくらいは知っていた。
確かに、そこには、武田氏という大名がいて、しかし、まだ甲斐すら統一しているわけではなかった。
だが、自分が読んだマンガの主人公も武田信玄であり、マンガが始まったところと、実に似ていたのだ。
しかも、そのタイムスリップでは、武田信玄が存在していたというわけではなく、その主人公が武田信玄として、その時代を生きていくというものだった。
ただ、そこで、マンガを読んでいる主人公は、マンガの中に、一つの矛盾を感じていた。
というのは、
「この主人公が登場する前は、そもそも武田信玄として生きていくはずの自分は存在していなかったはずなのに、急に息子が一人増えたということを、どうして疑問もなく受け入れることができたのだろう?」
というものであった。
これを、
「マンガの世界で、しかも、タイムスリップした時点で、このお話はSFとなったのだから少々話が変わっているとしても、矛盾があるわけではない」
といえるのではないだろうか?
という理屈をマンガを読みながら感じたのだった。
小説の主人公は、タイムスリップした先では、ほとんどの人が、違和感なく受け入れているのだが、一部の人は、主人公の存在に違和感を感じているようだった。
「あなたは、一体誰なんですか?」
と言われたことも何度かあったのだが、それを言ってきたのは、最近結婚したという奥さからであった。
結婚した相手は、
「あなたは、そんな人ではなかったようい思うですが」
ということをちょくちょくいうのだ。
さすがに、主人公も、
「まずい」
とは思ったが、彼女から何かを聴けるのではないかと思い、
「じゃあ、あなたが抱いている私という人間はどういう人だったのですか?」
と聞いてみると、
「それは漠然としてしか思い浮かばないんですが、あなたが一体どういう人だったのかということを考えると、正直好きになれるタイプのお方ではなかったんです。でも、今のあなた様は、私が望んでいた殿という感じなんですよ。だから、私はあえて、この気持ちの違和感をあなたにぶつけてみたんです」
というではないか。
どうやら彼女は最初から違和感を感じていたようで、その気持ちをぶつけることで、さらなる絆をもとめようとしているのか、それとも、自分の未来について、真剣に考えているのかと思うようになった。
現代人から見れば、戦国時代というと、
「戦に明け暮れた時代」
であり、いつ殺されるか分からない時代だった。
それは、
「戦場での討ち死に」
「下克上などによっての、暗殺」
などを含めてのことであった。
だから、この時代に生きる人は、
「その瞬間瞬間を生きるのが精いっぱいで、将来のことなど考える暇はないだろう」
という思いが強かったのだ。
だが、嫁と話をしていると、
「その考えが間違いだったのではないだろうか?」
と思うようになってきた。
どうしてそう感じるようになったのかというと、嫁の話を聴いた後で自分のことを考えてみた時、思い浮かんだのは、実際に自分が生きてきた、タイムスリップする前の、
「現代」
においての自分だった。
「あの時の俺は、未来のことなんか、まったく考えていなかったな」
と思った。
まだ高校生の少年といってもよくて、将来への漠然とした考えを思い出してみようと思うと、
「大学受験」
というものが目の前にあるのは分かっていたが、
「では、大学というところがどういうところで、どういう勉強をして、その後の人生を生きて行こうか?」
ということがまったく見えてこなかったのだ。
現代にいれば、実際に見えてこなくても、
「大学生というのは、どういう人たちで、どんな勉強をしていて、そしてサラリーマンがどういう格好をして会社に行くのか」
ということくらいは、分かっていたはずだ。
しかし、こっちの時代に来ると、まったく思い出せない。タイムスリップしたことで、「過去の記憶を失ったのか」
あるいは、
「過去の記憶が封印されただけのことなのか」
ということは分からなかった。
だが、そのどちらかも分からない中で、嫁の話を聴いているだけで、主人公は、自分の将来まで見えてくるかのようだった。
それは、マンガで得た、
「マンガ世界の中での、武田信玄像」
なのかも知れない。
しかし、その像が浮かんでくるというだけで、武田信玄になったかのように思えてきたことは、主人公に、一つの覚悟を与えることになった。
「どうせ現代に戻っても、先の見えない世界。だったら、こっちの世界で一旗揚げて、俺が武田信玄になってやろうじゃないか」
と思ったのだ。
もちろん、よほどのポジティブな考え方でなければ、そんな考えに至るわけはないだろう。
いくら、タイムスリップしてきて、戻り方も分からないという感覚だったとしても、群雄割拠の戦国で、逃げ出したい衝動に駆られているのは間違いないが、なぜか、混乱している頭が、冷静になってきているのを感じた。
「まるで、脳が二つあるかのようだ」
と感じた。
その時、
「もう一人の自分が存在しているのではないか?」
と感じたが一瞬だった。
もう少しいろいろ考えられれば、その先が見えたかも知れないと思ったのは、もっと後になってからのことだった。
「ひょっとすると、帰れるタイミングだったのかも知れない」
と感じたからだった。
だが、忘れてしまったものはしょうがない。違和感がありながらも、先に進むしかなかった。
ただ、一つ言えることは、
「この時代において、今の立場を失えば、その瞬間から生きていくことはできないのではないか?」
ということであった。
冷静に考えればすぐに思いつく。
何と言っても、自分という存在はこちらの世界では、存在しないのだ。
「武田信玄としてであれば、存在も違和感を持つ人はおらず、持ったとしても、まわりすべてに違和感がないのだから、一人がワイワイ言っても、どうなるものでもない」
といえるだろう。
「気が狂った」
と思われても仕方なければ、違和感を口にすることは自殺行為でもあった。
何しろ違和感を持った相手が主君であれば、それも仕方のないこと。武田信玄の否定は、
「死を意味する」
ということになるのだった。
ちょうど高校生の時の武田信玄というと、まだ、武田晴信といっていた時代であり、元服はしていたが、当主は父親の信虎だった。
作品名:合わせ鏡のようなマトリョシカ 作家名:森本晃次