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合わせ鏡のようなマトリョシカ

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 というものの限界というものが見えてくるような気がするのだ。
 ということは、
「歴史小説というものが衰退していき、本当の史実として書かれるだけの、教科書やテキストのような、新書的な本しか、ノンフィクションでは見てはいけなくなるのではないか?」
 と考える。
 つまりは、
「歴史小説が、時代小説に飲み込まれる」
 といっても過言ではないだろう。
 そうなると、
「ノンフィクション最強説が崩れてくるということが、矛盾となり。人々が歴史小説から離れる」
 と考えられるのではないだろうか?
 歴史小説がなくとも、学説の本であったり、教養のある学者先生がまとめた論文に近い本であればいいということになる。
 もっとも、それが難しいということで、もし、一般読者が、歴史小説を読んでいたのだとすれば、そこは、
「入門編」
 としては、許容範囲だったのではないだろうか?
 そんな小説の世界を、限界として考えていない人が多かったのではないだろうか?
 歴史がどんどん解明されていくのを、
「素晴らしいことだ」
 とまるで、他人事のように思っていた人が歴史小説のプロ作家にいるとすれば、何とも、いわゆる、
「お花畑状態だったのではないか?」
 と言われても仕方のないことだったのかも知れない。
 歴史というものが、
「生き物である」
 とまでは、さすがにそこまでは考えないかも知れないが、自分にかかわりのある小説を取り巻く環境が変わってきていることに危機感を抱かなかったとすれば、本当に、
「お花畑の中にいたのではないか?」
 と思われても無理もないことだったのかも知れない。
 それを思うと、
「歴史小説の限界は、作家から来ているものかも知れない」
 ということで、
「システム開発に携わっている人間が、自分の開発していることに直接関係ないから」
 ということで、まったく無視しているのと同じである。
 小説家にしてもそうなのだが、
「同じような内容の話を書いていたらどうしよう?」
 ということで、少なくとも、自分で、著作権や盗作などの疑いを受けないようにということで気を付けるはずである。
 そこは時代考証の問題と一緒で、かなり気を遣うだろう。
 そもそも、著作権の問題や盗作まがいのものは、ノンフィクションに限らず、フィクション作家はかなり神経をとがらせていることだろう。
 ただ、そちらの意識は、フィクション作家の方が大きいだろう。
「なぜなら、発想力ということが求められ、創作ということを前面に出さないといけないフィクションは、そのオリジナリティということもあり、余計に、他人と作品がかぶるなど、
「プロとしては、一番気を付けなければいけないところだ」
 と考えていることだろう。
 中には、編集者の方がそれを調べる役目の時のあるだろうが、そもそも、他の前作品に目を通すなどということは実質不可能なので、万が一かぶっていたとすうれば、それは、
「運が悪かった」
 といって、ある程度、諦めるしかないのだろうか?
 とはいえ、まったく何もしないというのは、アウトなので、自分なりに調べたりするのは最低限の作家としてのモラルというべきであろうか。
 作家としてのプライドからも、決して盗作などしたわけでもないのに、
「パクった」
 などと言われると、ショックであり。許せない気分にもなるだろう。
 しかし、それでも、それを言おうとすると、自分の方としても、根拠のあることを言わないといけないので、必死になってその作品を読み込み、違いを探そうとする。
 時として、その内容が次作のヒントになったりするのだから、
「作家というのは、実に面白いものだ」
 と、考えるかも知れない。

                 もう一人の武田信玄

 時代小説を書いていると、パラレルワールドを思い浮かべてしまう。パラレルワールドについての勘違い、そこが、時代小説の限界を感じさせるのではないだろうか?
 パラレルワールドについて最初に考えていたのは、今まで散々書いてきた、
「無限」
 という問題であった。
 無限というものは、前述の、
「過去と、未来にあり、現在だけは、有限である」
 と考えたが、その無限という発想として、ここでの勘違いをしてしまったのは、
「未来」
 という問題であった。
 最初は、パラレルワールドという言葉に対しての勘違いがあったのか、未来というものが、
「はるかに広がるという意味のパラレルだ」
 という風に思い込んだので、未来という次の瞬間に広がっている果てしない、無限という世界を、
「すべて存在する世界だ」
 と感じたのだ。
 だから、その次には、さらに無限が広がっている。
 しかし、
「無限×無限というのは、無限でしかない」
 という、一種の矛盾のような計算式に、何か違和感を感じ、そこで考えたのだが、
「最初に生まれた次の瞬間の無限というものは、実際に次の瞬間に、現実になると、怒ってしまったこと以外はすべては消えてしまい、さらにそこから無限が生まれる。つまり、一度生まれた無限であっても、可能性でしかなく、次の瞬間、現実として生き残れなければ、それが消えてしまう。それが運命というものだ」
 ということで、これが、今実際に起こっている世界だということだ。
 たとえとしては、
「一つの目標物に対して、無数の可能性が進んでいき、そして、それを一つが突破すれば、門が攀じてしまい、入れなかったものは、そこで死滅する」
 というもので、生物学的なたとえ話となったが、
「まるで、男子から放たれた精子の群れが、女性の卵子に付着するための、生命の誕生というものだ」
 と思ってくれればいいのではないだろうか?
 いくらたくさんの可能性があっても、
「運命の一体」
 が入り込んでしまえば、あとは、死滅するしかない。
 その運命の一体が、現在であり、そして過去になっていくうちでは、ひょっとすると、「別のところから、未来として飛び込んできた世界もあるのではないか?」
 ということで、
「過去も、無限に広がっている」
 という考えに至るのだった。
 パラレルワールドの考え方の一つとして、
「この無限に広がったものが、一つの現在に向かって飛び込んできた世界のことをいうのではないかという発想である。
 もちろん、この発想には、かなりの無理がある。普通は、
「未来に向かって、無限の可能性がある」
 とはよく言われるが、
「現在というものが、一つにまとまるために、別の世界の現実からの可能性も無限にあったのではないか?」
 と考えることで、おおよそ、前しか見ない、いや、見ることのできない人間にとっての、できる限りの発想が、この過去の無限性ということであり、それがパラレルワールドではないかと思っていた。
 普通の人だったら、未来に広がる世界の一つ一つが、
「広がる可能性」
 としてのパラレルワールドではないかと思うのだが、過去から繋がったものであれば、今を結果と考えた場合の過去が、無限の可能性を持っていると考えれば、ドッペルゲンガーであったり、本来言われている、
「パラレルワールド」
 というものの、何たるかということを考えることができるのではないだろうか?
「並行宇宙」