合わせ鏡のようなマトリョシカ
だから、逆にそのことを指摘する人がいれば、それを一種のギャグとして、いじるということになるのだろう。その時一緒に、水戸黄門や遠山の金さんのラスト手前のワンパターンも一緒にいじるようになるのだ。
それが、どうしても、セットや予算の関係で、いろいろな撮影ができないというリアルが理由を感じさせないようにするための、感情を操作した発想だったのではないかと思うのであった。
そういう意味で、それらの発想、例えば時代劇のワンパターンの演出、2時間サスペンスの断崖絶壁での謎解きシーン。考えた人は、本当にすごいといえるだろう。
ただ、やはり人間の心理に潜むものとして、毎回のワンパターンを、
「実は、さりげなく意識させない心理がある」
ということであったのかも知れない。
その発想が、パラレルワールドのような、
「平行世界」
という感覚ではないかと感じるのであった。
そんなパラレルワールドであるが、安藤は、最初勘違いをしていたようだ。
というのも、時間軸という者に対しての発想が違うものだったようで、その一つが、
「過去から、現在、未来へと続く」
ということへの考え方であった。
つまり、過去があって、現在というものがあって、未来がある。現在というものだけが、時間としては、不動のものであるのは、誰もが思うことであろう。なぜなら、時間というものがまっすぐ、規則正しく流れているものであり、だからこそ、時刻という形に、刻まれていくものなのだ。
「時間というのは、時の間であり、時刻は時を刻むもの。時間が静的なものであれば、時刻というのが動的なものだ」
といえるであろう。
現在というものは、未来であったものが、ある瞬間に、現在となり、そして次の瞬間には過去になる。これは誰もが無意識に理解しているものであり、説明するまでもないことではないだろうか?
だから、現在というものの長さが時間の感覚であり、未来から現在、過去と繋がっていくものが、時刻だといえるだろう。
一つ言えることとして、
「現在だけが、漠然と時間の感覚が分かっている」
ということである。
未来も過去も、ハッキリいえば、無限なものである。理屈で考えれば、未来はどんどん減っていくもので、過去はどんどん増えていく。
「赤ん坊の時の記憶や意識がないのは、その無限であるはずの過去が、最初は有限であったからではないか?」
という考えは突飛すぎるのではないだろうか?
この発想は、受賞作品の中で、突飛すぎる発想であるが、信長が死を迎えるに際して考えているというのを、さりげなく表現していたのだ。
この時間と時刻の話は、どんなにさりげなく話しても、難しくしかならないということなのであろう。
つまりは、前述のであれば、
「無限から何を割っても無限にしかならないように、無限に何を足しても、何を引いたとしても、あるいは、何を掛けたとしても、結果は、無限でしかない」
ということなのだ。
未来も過去もそういう意味では、
「無限」
ということで同じなのだ。
現在というのも不変だとすれば、
「すべてが無限の世界でしかないものであっても、一つ言えることは、過去、現在、未来と続くすべての時間をつなぎ合わせたものは、完全なる不変ということになる」
といえるのではないだろうか。
これが、安藤の小説の中での、
「隠れた主題の一つ」
であり、彼の小説の中には、そういう隠れた主題のようなものが、いくつか含まれているものだったのだ。
そのことに、なかなか読者は気づかないだろうことは、作者である安藤も考えてはいない。
そもそも、小説の中にいくつかの主題があるということを意識しながら、小説を書いているわけではない。
無意識に書いているとそうなっただけで、作者の思いとは裏腹ではあるが、だからこそ、面白いという小説もあるのだろう。
それを、
「編集のプロ」
と言われる、出版社の人たちが分かるかどうか?
コンテストなどの原稿の中には、
「本当に素晴らしい作品」
と言われるような作品が、実は、
「一次審査で落選していた」
などということが、往々にしてあったりするのではないだろうか?
それが、小説の難しいところでもあり、楽しいところでもあるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「プロになって、自分の書きたいことが書けなくなるというが、人によっては、それができる人もいて、まさに天職だといえる人がいるのだろう」
と感じるのだった。
小説というものを、
「簡単、難しい」
という括りで考えると、ノンフィクションというのは、難しい部類なのかも知れない。
特に、歴史小説などでは、時代考証であったり、自分の書きたい内容は、史実と言われるものに近くなければ、受け入れられないものであろう。
何が事実なのかは、時代が違うので、分かるはずもない。
何しろ、歴史というものは、言い伝えられてきたりしたものを、事実として言われることが多く、最近になってから、いろいろ発見され、
「かつて言われてきたことが、信憑性がなくなってきた」
ということで論争が起こり、最終的に科学的な調査を絡めたところで、その信憑性の高さで、正しいこととすることが増えてきただろう。
だから、数十年前に、
「歴史小説」
として、
「これは正しいことなんだ」
ということで、書かれていることだったとしても、時代が流れて、発掘調査が進み、さらに、科学的な調査が行われたことで、正確な年代が分かってくるようになると、
「かつて言われていたことに対して、発見されたことへの説明がつかなかったり、矛盾が起こってくると、昔言っていたことが、間違いだったと言われるようになることが多くなってきた」
と言われるようになってきたのだろう。
となると、昔、
「これが正しい」
と言われてきたことに対しての話が、実は違っていた。
つまり。
「ノンフィクションが実はフィクションだった」
ということになり、その本の評価が下がってくるということになりえるかも知れない。
もし、それがベストセラーとなったものだったとすれば、この評価は、作者にとっては屈辱的なものであり、
「たまったものではない」
となるに違いない。
しかし、これは本人だけの問題ではなく、むしろ、歴史小説界では大きな問題である。
「史実に基づいて、時代考証であったり、そのまわりの歴史にも忠実に書くのが、歴史小説だ」
と言われているのに、後になってとは言っても、
「実は、かつての定説はウソだった」
などと言われると、ノンフィクションとフィクションの立場が、歴史小説界では逆になるのだ。
「かつてのベストセラー」
と言われてきた小説を、いくら歴史解釈が変わったからといって、
「あれは駄作だったんだ」
ということにはできないだろう。
そうなると、今までの、
「ノンフィクション最強説」
のようなものが覆り、
「ノンフィクションだって、時代の流れで、どうなるものでもない」
ということになったとすれば、歴史小説の何たるかという基本部分が、そもそも狂ってくるといってもいいだろう。
それを考えると、
「歴史小説」
作品名:合わせ鏡のようなマトリョシカ 作家名:森本晃次