合わせ鏡のようなマトリョシカ
「どこかで、もう一度、ゼロのとこる、いや、限りなくゼロに近いところに戻ってくるのではないか?」
と思うようになった。
安藤は、数学的にはありえるゼロという概念であるが、そのほとんどは、
「限りなくゼロに近いものだ」
と言え、逆にいえば、
「絶対にゼロにもならなければ、限りなくゼロに近いということは、存在しているにも関わらず、見ることのできないものとしての不気味さを醸し出している」
と考えるのだった。
「整数から整数を割る場合、どんなに小さくなっても、ゼロにはならない」
という考えだったのだ。
世の中においても、信じられる存在感というのは、
「限りなくゼロに近いもの」
というように、解がないということを否定するような、このような曖昧な回答でしかないものが存在していると思うのだった。
数学的な発想であったが、本当にそうなのであろうか?
例えば、
「無限というものは、何であっても、無限である」
この発想が、限りなくゼロに近いというような曖昧な発想と類似しているのではないかということである。
安藤が、フィクションに憧れたのは、学生時代に読んだオカルト小説からだった。
その小説は、若干SFチックなところが混じっていて、テーマとしては。ドッペルゲンガーだったのだ。
その作家のモットーというのが、
「フィクションを、まるでノンフィクションのように描く」
ということであった。
それまでの安藤は、
「フィクションというのは、あくまでもノンフィクションではないというイメージから、創作していくものだ」
と思っていた。
だから、
「俺は、小説を書くんだったら、フィクションを書きたいんだ」
と考えていた。
最初の頃は、時代小説など、面白くもないし、愚の骨頂だと思っていた。そういう意味で、SFであったり、ミステリーなどという小説を書きたいと思い、時間があれば、SFやミステリーばかり読んでいたのだ。
家では、祖母が、よく時代劇を見ていた。今のように、ゴールデンタイムに、まだ時代劇をやっていた時代であり、今でこそ、まったく見なくなった時代劇だったが、話を聴くと、
「ずっと昔から、水戸黄門や遠山の金さんなどという時代劇が、シリーズとしてずっと放送されてきた」
というからビックリであった。
そんな時代など知るはずもなく、時代劇というと、今は、スカパーや、配信放送などの、有料放送でしか見ることができなくなった。
それでも、ある程度の年齢の人たちには今でも愛されているようで、有料放送と契約をしてでも見たいものだということだ。
安藤の記憶としては、
「とにかく、毎回同じような内容で、前半は、いろいろなパターンから物語性を作っていたのだろうけど、最後の10分くらいは、どの番組もすべてがワンパターンだった記憶がある」
というものであった。
それはそうだろう。
「水戸黄門であれば、葵の御門の印籠を差し出して、助さん格さんに、自分が、水戸光圀であることを宣言させる」
「遠山の金さんであれば、町人の姿をした金さんが、殺陣の最中に、桜吹雪の入れ墨をわざと見せて、お白洲でもろ肌を脱ぐことで、悪党が言い訳できないようにする」
という、それぞれお定まりのパターンがあった。
「勧善懲悪」
と、日本人が好きな。
「判官びいき」
というものを組み合わせたものが、それら時代劇の特徴であった。
だから、時代劇は、年配以上の人が好んで見るものだったのだ。
完全に、
「娯楽」
であり、娯楽というもの自体が今までのようにいろいろなかった時代から続いてきたものだったのだ。
いまさら、若い人がこんな時代劇を見て、何を面白いとみるのだろうか?
「時代劇の醍醐味というのは、殺陣であったり、勧善懲悪のスカッとした気持ちであったりというところに眼が行きがちだが、実際には、自分たちがまったく知らない江戸時代という、本当は存在していた時代なのに、まるで見てきたものであるかのように、想像して作れたセットであったり、街並みの小道具であったりというものに思いをいかに馳せさせるかという醍醐味なのではないだろうか?」
と感じるのだった。
「これこそが、架空の世界へいざなってくれるものであり、フィクションと言われる舞台の原点なのではないか?」
と感じるのだった。
確かに江戸時代というと、
「時代劇で見た光景」
ということである。
時代劇において出てくる光景というと、武家屋敷であったり、人が住んでいたとされる。長屋であったり、街中のそば屋や飲み屋の風景など、時代劇をずっと見ていた人には馴染みの風景である。
京都にある、時代劇を撮影するためのセットが作られている撮影所が、有名であるが、そこで、映画であったり、ドラマの時代劇は、まずそのほとんどが、そこで撮影されているものであろう。
だから、ほとんど、毎回出てくる光景でありながら、その景色を見ていて、飽きることがないのは、
「自分たちが実際に見ることのない想像の世界だ」
というイメージと、
「勧善懲悪ということで、いつもワンパターンでも、許される」
というようなことから、
「毎回この光景だ」
と視聴者が思ったとしても、それを納得できるだけの土壌が出来上がっているということなのであろう。
そういう意味で、時代劇というのは、
「毎回同じセットなのに、違和感のないもの」
という一種異様な感覚になるのだった。
これは、
「毎回同じ光景なのだから、同じ場所ではないか?」
ということに気づいたとしても、
「よくもまぁ、毎回同じところで。似たような事件が起こるよな」
という、ことに気づいてもいいだろうに、気付いたかも知れないが、それをおかしなことだと思わないようにできる何かのテクニックがあるのかも知れない。
現代劇でも似たようなことが言えるかも知れない。
その一つとして言えることは、いわゆる、
「二時間サスペンス」
などの場合である。
こちらは、以前まで、午後9時くらいから11時までの約2時間という間に、ミステリーを題材にしたサスペンスものがドラマとして放送されていた。
今でこそ珍しくもないが、
「安楽椅子探偵」
と呼ばれるようなキャラクターパターンが出来上がっていた。
安楽椅子探偵と呼ばれるのは、一種の総称であり、いわゆる、初期のものでは、
「赤カブ検事」
であったり、
「新聞記者やルポライターが、趣味で事件を解決する」
などと言った、本来の仕事ではない人が、
「いつも事件に巻き込まれる」
あるいは、
「自分から事件に首を突っ込む」
などということで、事件を解決に導くというものだった。
そんな人たちが事件の真相に気づき、謎解きとして、犯人を連れ出す場所というのが、いつからなのか分からないが、いつも、
「どこかの断崖絶壁だ」
という。
普通であれば、
「毎回毎回、どうしてここなんだ?」
と思うはずだ。
しかし、当初は誰もが何の疑いもなく見ていたことだろう。それはきっと、時代劇のワンパターンに思考回路が慣れてきていて、おかしいと思わないのかも知れない。
作品名:合わせ鏡のようなマトリョシカ 作家名:森本晃次