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合わせ鏡のようなマトリョシカ

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「歴史上、それらの布教を容認するかわりに、キリスト教が少なくとも、自分たちが生きている時代に存在したという証拠を残してはならない」
 という、明確なのか、暗黙なのかということでの、密約のようなものがあったのかも知れない。
 それが時代とともに、常習的になっていて、次第にその正体がハッキリしはしない、
「暗黒の宗教」
 という位置づけだったのかも知れない。
 だから、フランシスコザビエルがやってきた時、
「同じ宗教だ」
 という感覚がなかったのかも知れない。
 いや、それ以上に不思議なのが、
「キリスト教は、ちょっとの布教活動で、一気に信者を増やしていったというではないか? つまり、それだけ、馴染みが深い宗教だったということで、ザビエル渡来の前から、土着していたものだ」
 と考えるのが自然ではないかと思える。
 そうやって、一つ一つを紐解いていくと、
「本能寺の変」
 というものの黒幕として、
「ルイスフロイスを中心とした、キリスト教の勢力だ」
 といってもいいのではないだろうか?
 さらに、キリスト教の方でも、
「信長がこのままの状態で天下を握ると、キリスト教の行く末に危機が迫ってくる」
 と考え、明智光秀を陽動したのかも知れない。
 そう考えると、今までに何人もの黒幕説が出てきたが、そのどれも決定的なところがないのだ。
 つまり。
「そのどれでもないのかも知れない」
 という思いと、さらに、
「もし、他に新たな黒幕説が出てくれば、そこが、一歩抜け出す形での信憑性のある証拠が残っているのかも知れない。それはあくまでも、自分たちが見つけ切らないだけであって、それを発見できたとすれば、確たる証拠なのだといえるだろう」
 と考えているのではないだろうか?
 それにしても、今までに、黒幕説の中で、本当に、
「キリスト教宣教師説」
 がなかったというものおかしなものだ。
 ただ、黒幕というのは、別に実行犯をけしかけるだけで、何も兵力もいらないのだ。
 そう考えると、何も武士である必要はない。武士であれば、信長を自らが殺して、自分が天下人になるという方法もあっただろう。
 しかしそれをしなかったというのは、
「信長が日ごろから、謀反であったり、内乱に関してはしっかりと目を光らせていたからなのかも知れない」
 何と言っても、いくら天下が近づいたからといって、いや、実際に天下が近づいているからこそ、この時代のポイントとしてあげられる、
「下克上」
 というものが、平気で行われる時代なのだから、これは信長に限らず、必要以上に警戒していたことだろう。
 それなのに、みすみす、しかも、あっさりと配下の光秀に殺されてしまうというのは、あまりにもあっけないといえるのではないだろうか?
 信長という人間は、いや天下を握る人間には。最低限でも備わっていなければいけない何かを持っているはずだ。
 ということであれば、信長は志なかばで、謀反を起こされたということは、信長という武将が、
「実は、天下を握るために、最低限身に着けていないといけない何かを身に着けていなかった」
 ということなのかも知れない。
 信長は、革命家であり、斬新な政策を打ち出し、数々の成功を収めているということで、
「天下人に一番近い」
 という定説であったが、そのたった一つの、それも一番大切なことが抜け落ちているということで、信長は、討たれたといっても過言ではないだろう。
 そう考えると。
「光秀の単独説」
 というのも、ありなのではないか?
 要するに、単純に、
「信長が天下を取る器ではなかった」
 ということであれば、
「本能寺の変」
 というものに、謎などなく、
「起こるべくして起こった変だ」
 といえるのではないだろうか?
 実は、この案を安藤も考えていたが、それを小説の中に組み込むのをやめていた。
 それは、後述で理由が明らかになってくるのだが。やはり、一つの仮説の中で、それを強調したいのであれば、対抗する説を唱えることは、その言いたいと思っている説を、相殺するという形になるので、一種の、
「禁じ手だ」
 といってもいいだろう。
 それを考えると、さらに、
「キリスト教主犯説」
 というものが深堀りされてしかるべきであろう。
 そして、安藤は、そのことで、
「調べれば調べるほど奥が深い」
 というような、まるで、
「底なし沼に嵌りこんでしまったかのように思われる」
 と感じているのかも知れない。
「本能寺の変というものの本当の黒幕は存在するのだろうか?」
 この定義は、大きく歴史ファンや学者の間でのテーマとなっている。
 さらに、この問題が、歴史の中でも大事件と言われ、謎が深まっている事件に、いかに影響してくるのか、そのあたりが難しいところであっただろう。
 時代小説というものは、あくまでも、フィクションではあるが、実際の史実の上で書かれる必要がある。
 そういう意味で、歴史小説を、
「多次元」
 という発想ではなく、あくまでも同一次元ということでの、
「パラレルワールド」
 として見ているという。安藤らしい発想ではないだろうか?
 この発想があるからこそ、今まで誰も言ってこなかった、
「キリスト教主犯説」
 というものが出てきたということになるのであろう。

                 恩フィクション最強説

 この話の中で、安藤は、
「ドッペルゲンガーのような存在」
 をほのめかしていた。
 ドッペルゲンガーというのは、
「もう一人の自分」
 という意味で、
「世の中には自分に似た人が3人はいる」
 と言われている、似た人というものとは違うものであった。
 つまり、もう一人の自分というものが、存在するとすれば、同一次元では考えられないということで、
「異次元世界、あるいは、違う時間軸からやってきた」
 と普通なら考えるだろう。
 しかし、ここで、安藤は、
「平行世界」
 という発想を取ったのだ。
 同一次元でありながら、別の宇宙が存在していて、そこに生きている自分の存在を描いてみた。
 しかし、ここで同一次元の自分であり、並行宇宙と呼ばれる、
「パラレルワールドのような世界」
 であったとすれば、致命的なこととして、
「距離の問題をいかに解決するか?」
 ということになるのだった。
 ただ、距離というものと、時間の関係が、切っても切り離せないもので、時間を飛び越える発想が距離を詰めるものだとすれば、
「ワームホールというのは、タイムマシンではなく、どこでもドアのようなものではないか?」
 といえるような仮説を立てていた。
 どこかのアニメで聞いたようなアイテムであるが、もし、ワームホールの存在を肯定し、それをタイムマシンと考えるのであれば、
「どこでもドア」
 のようなものだと考えたとしても、そこに大差はないといえるのではないだろうか?
 それを考えると、同一次元の方が、時間が経っているわけではないので、より、
「今の自分と見分けがつかない」
 ということで、考えることもできる。
 いや、
「逆に時間というものを横軸にして、縦軸に、距離を考えた時のグラフが、本当に直線になるのかどうか?」
 ということを考えれば、