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違和感による伝染

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 という希望的観測もあった。
 というのは、若い頃のいろいろな部署への転属は適性を見るということなので、いずれはどこかに落ち着くということである。
 それが、この部署ではないという保証はどこにもないのだった。
 それを考えると、
「このままではいけない」
 ということは分かっている。
 少なくとも、目の前の問題を一つ一つ解決していかなければならない。
 ただ、一つ言えば、
「目標シートの納期は決まっている」
 ということであった。
 いくらひどい上司であっても、その締め切りにまでは間に合わせるだろう。
 つまり、歩本意であっても、提出しなければいけないのだ。
 だから、姑息な手段であるが、少なくとも精神的にはそこまで追い詰められないようにするためということで、
「何とか、締め切りまで、自分が耐えればいいんだ」
 ということであり、そこから先は、苦痛から逃れられるということであった。
 上司としても、一人だけのシートにこだわって、提出できないとなると、
「自分が、今度はさらに直属の上司から、部下の面倒も見ることができないというレッテルと貼られてしまう」
 ということになるのだ。
 だから、上司はそれ以上何も言わずに提出することだろう。姑息ではあるが、そうするしかないのだ。
「この方法でいくしかないな」
 ということで、
「時間の解決を待つしかない」
 という実に消極的な方法しかなかった。
 何しろ前に出れば、すべてを跳ね返されるからだった。仕方がないので、毎日終電になろうが、何もできず、やらなければいけない仕事だけを済ませて、後は、じーっと終電近くまで、我慢するしかないのだった。

                 終着駅の街並み

「とにかく上司が言っていることに間違いはない」
 ということはれっきとした事実だった。
 だからと言って、自分が考えたことはすべて跳ね返される。何かを言っても、すべてが言い訳として処理される。
 そうなると、前に進むことができなくなり、ゴールが見えているのに、行き過ぎてしまって、またもう一度ゴールを目指すということになる。
 そんなことをしているうちに、皆ゴールしてしまうのだ。
 それを思うと、童話に出てきた。
「ウサギとカメ」
 の競争の話を思いだした。
 ウサギは、カメが相手などということになると、
「どうせ、余裕で俺が勝つんだ」
 ということで、途中で昼寝をしてしまい、気が付けばかなり寝ていたようで、カメに先にゴールされていたというオチであった。
 これは、あくまでも、ウサギが余裕をぶちかましたことで、油断してしまい、カメに負けたということで、教訓として、
「油断大敵」
 ということになるのであろう。
 しかし、実際には、
「油断大敵というよりも、もっと奥が深いのではないか?」
 と考えられる。
 なぜなら、このお話では、すべてが、ウサギからの一方的な見方であり、相手をしているカメの気持ちや性格、考え方がまったく物語に反映されていないではないか。
 逆を言えば、
「反映されていないからこそ、ウサギを主人公にするだけで、物語が完成し、教訓というものが生まれることになる」
 といえるのだ。
 もし、この時、主人公はあくまでもウサギだということにして、さらにカメの心情などを表すようにして、結論を、
「油断大敵」
 ということにするのであれば、少しやり方が、卑怯な方法に結びつける必要があるだろう。
 つまり、
「カメを悪者にすることで、ウサギは単純に、油断したことで、カメにゴールを奪われた」
 という結論になるだろう。
 そうなってしまうと、今度は、カメの立場もウサギと同等、いや、それ以上に目立たせないと、
「油断からの大敵」
 が表に出てこない。
 つまり、この場合の大敵というのが、カメのことだからである。
「いかにも悪党としてのカメを演じることで、ウサギの誠意な部分が表には出てくるのだが、それだけに、油断をすると、足元をすくわれる」
 ということが、一種の、
「大人の世界」
 における、
「油断大敵だ」
 ということになるのだ。
 それを自覚していないと、この話を、
「本当に油断大敵を戒めるものだ」
 という解釈にならないだろう。
 ただ、この場合のカメを悪にしてしまうと、勧善懲悪の観点から、
「カメが最初にゴールする」
 という考えは、容認できるものではないといえるのだ。
 そうなれば、カメに注目を集めないようにして、あくまでも、カメをわき役として、最後にご褒美があったという程度にとどめておく必要があったというものであろう。
 それが、
「うさぎとカメ」
 の話であるが、ここに、
「勧善懲悪の側面は存在しない」
 ということにしてしまう必要があったということである。
 それを考えれば、
「童話というのは、どこまでの教訓を表に出すことができるか?」
 ということにかかってくるのではないだろうか?
 会社においての、苦悩の一番の問題は、
「相手が言っていることに間違いがない」
 ということである。
 今であれば、それらも含めて、
「パワハラだ」
 ということもできるかも知れない。
 被害妄想を持っていれば、その思いが自分の中でパワハラだと思うことで、皆が味方してくれると思うからだ。
 ただ、今の時代においてでも、
「パワハラにはならない」
 ということになると、身動きが取れなくなってしまうだろう。
 取れなくなった身動きであるが、金縛りにあっているような気分になると、
「何が正しいというのか?」
 ということで、相手を責められないと思うと、まったく逆らえない。
 そうなると、苛めの時のように、
「時間をもって、やり過ごすしかない」
 としか思えないであろう。
 そんなことを考えていると、世の中において、
「何とか、自分の正当性を見つけるしかない」
 と考えるしかなくなるであろう。
 相手も正しいのだから、このままでいけば、自分だけが悪者になってしまい、立場上も、
「上司のいうことには従わなければならない」
 ということになる。
 もし、この上司や、他の上司から、
「パワハラのようなこと」
 を受けているとして、それを同じように苦しんでいるとすれば、
「誰かが立ち上がるしかない」
 ということになるであろう。
「ハラスメントはコンプライアンス違反として、認めてはいけないことだ」
 と世間では言われているが、それに逆らうかのように、いくら相手に正当性があるといって認めてしまうと、他に、同じようなことで苦しんでいる人がいるのだとすると、ここで負けてしまうのは、
「逃げていること」
 であり、皆をも、巻き込んでしまうといえる。
 そこまで、自分に責任を負わせる必要はないのだろうが、もし、今度立場が逆になった時は、きっと、まわりから、
「許してもらえない」
 ということになるに違いない。
 それを思うと、
「いかに、まわりに対し、自分の正当性を訴えるか」
 ということになるのだが、ここで逃げの姿勢を見せてしまうと、どうしようもなくなってしまうに違いない。
 そんなことを考えていると、余計に雁字搦めにされてしまうかのようで、
作品名:違和感による伝染 作家名:森本晃次