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違和感による伝染

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 これは、逆らうことで、相手に自分の痛みを感じさせ、相手がそれを楽しいと感じることが怖いと思ったのだ。
 そして、その相手を怒らせることをしないでやり過ごすことで、
「自分の正当性をまわりに示す」
 というのもあった。
 最初の理屈では、
「足が攣った時の対応」
 ということを感じさせるのであった。
 足が攣った時は、身体がいうことを利かないほどの痛みが全身に走り、まずは、
「足をさすろう」
 という思いになっても、硬直してしまった身体を動かすことができず、必死になって、耐えようとする。
 その時、
「決してまわりには悟られたくない」
 という思いを感じるのだが、それは、
「まわりの人に心配されたとしても、まわりの人が痛みを変わってくれることも、ましてや、解消してくれるわけでもない」
 ということだからである。
 だとすれば、まわりに気にされて、下手に同情されてしまうと、
「せっかく必死で耐えようとしている痛みに、自分が負けてしまうのではないか?」
 という思いを抱くからだと思ったのだ。
 このことを最初から分かっていたわけではない。痛みを感じている時、その痛みを感じながら自分で悟ったのだ。
 もちろん、無意識の感覚に違いないのだが、相手がそのことを分かってくれているはずもないので、自分で、知られないようにしないといけない。
 だから、相手の痛みを分かってもいないくせに、分かっているように振る舞うのは、完全にウソであり、その気持ちは、相手の自己満足や、自己顕示欲から来ているものなのではないかと思うのだった。
 痛みをどこまで耐えられるかということは、その時々によって違うものである。それを分かっているので、相手に同情されるというのは、痛がっている自分に対して、まるで。
「傷口に塩を塗る」
 という行為に相違ないと思うのだった。
 それを思うと、自分が苛めという痛みから解放されるには、
「間違っても、まわりから助けてもらえる」
 などということを思ってはいけないということであった。
 さらに、まわりから心配されると、どうやら、
「気弱になってしまうのではないか?」
 と考えていたが、その通りのようだ。
 気弱になると、せっかく耐えようとしている痛みを受け入れてしまったことになり。負けてしまうと、
「ああ、痛みを甘んじて受け入れなければいけないのだろうか?」
 と感じると、その後、急激な痛みが治まった後でも、ロクなことはない。
「足が攣るということは、連鎖反応があり、気を抜いてしまうと、また足が攣るという状況に陥ってしまう」
 というのだった。
 特に、その痛みに耐えなければいけない時というのは、
「痛みを感じた時、痛みを受け入れることと、自分に負けてしまうということが、同時にきてしまうことで、負けたという意識がなくなるのではないか?」
 と思った。
 残るのは、痛みを受け入れたということだけであり、その対処として、唯一、
「自分に負けないことだ」
 ということであるにも関わらず、それを忘れてしまうのであれば、その後の対応に苦慮しなければならないといえるであろう。
 痛みに耐えるということは、精神的な部分と、肉体的な部分の両方を克服しなければいけない。
 それは、外的要因による痛みではなく、自分の中から沸き起こった痛みであれば、それは当然のことのようだ。
 それを考えると、足が攣った時の対応は、精神的な苦痛から抜けるために、必要な戒めのようなものであった。
 そんなことを思いだしていると、
「最初に会社に入った時は、優しい上司に恵まれたと思っていると、急に部署替えの話を聞かされて、そして、自分がロクでもない上司にあたることになるなど、想像もしていなかった」
 ということを考えていた。
 確かに数か月は、
「何とかなる」
 と思い、
「自分がしっかりしてさえいれば、苦しむことはない」
 と、考えたことを、愚かだと思ったのに、簡単にその考えを受け入れることができないということに気づいたのだ。
 逆らうこともできないことが、こんなに苦しいなどということを、その時の自分は、まったく気づきもしなかった。
 逆らうということは、
「相手が自分のことを分かってくれて、そこで初めて成立するもので、その自分のことを分かってくれないのは、自分の努力が足りないからだ」
 と考えていたが、
「それが間違いだった」
 ということに、すぐに気づかなかったのは、自分が悪いからだろうか?
「世の中には、自分で何とかなる人間ばかりだ」
 と思い込むのは、自分の思い込みからであろうか?
 そう思い込むのは、自分がそう思いたいからだと考えるのを、自分の甘えだと思っていたが、逆であり、
「分かっていることを自分で認めることができない」
 という思いから、
「何とか自分を納得させたい」
 ということで、余計にそう思い込むのではないかということであった。
 思い込みが激しいのは、親の教育によるものだったかも知れない。
「とにかく、まずは、自分が間違っているというところから入りなさい」
 と母親は言った。
 しかし、逆に、
「自分が間違っていないということを、自分で信じれるようにならないといけない。それが男というもので、女にはないものだ」
 という、昔の男尊女卑のような発想であったが、逆に、
「それだけのことを考えるには、
「男としての覚悟がいる」
 ということの裏返しではないだろうか?
 佐藤としては、両親のどちらの考えも分かるつもりだった。そして、どのどちらも受け入れるつもりであったが、しょせんは、水に油のようなもので、決して交わるということのないものだといえるだろう。
 そう考えると、佐藤が、社会人になる前に、かなり不安に感じていたことも分かる気がする。
「学生時代であれば、両親の言っていることが矛盾していることなのか、それとも、二人ともの言っていることは、矛盾しているのかも知れないが、そこは男女の違いとして受け入れなければならない」
 ということになり、
「男尊女卑」
 という現代における、
「男女平等」
 という発想に逆行しているようで、受けてきた教育までが、この相対する教育論の中で水を差すものではないかと考えるのだった。
 そんな時代において、
「コンプライアンス」
 という言葉が言われ出して、今までは正しいとして受け入れられていたことが、
「実は間違っている」
 ということになり始めていることを考えると、
「何が正しいのか?」
 ということが分からずに、
「時系列としての縦軸だけではなく、並行して考える横軸も、一緒に考えなければいけない」
 ということなのかも知れない。
「仕事をただしていればいい」
 という状態であれば、部署を移ってすぐの時であれば、
「自分のペースで仕事をする」
 という発想になればいいのだが、
「上司が、自分のやりたいようにさせてくれない」
 という発想からであれば、まったく何もできないことになるのだ。
 ただ、上司はプレッシャーをかけてくるだけで、この時は何も言わない。言ってくるのは、何かの課題を出した時、考え方を話した時だった。
作品名:違和感による伝染 作家名:森本晃次