違和感による伝染
やつらはそれを見て、完全に佐藤の様子を把握しているようだった。
その時のことを思い出すと、今の会社での自分の立場が分かって気がした。目の前の女の子も、
「ひょっとすると、俺と同じような思いを感じているのかも知れない」
と思うと、理由は分からないが、父親のことを聞いてきたことから、自分が昔から感じていたことと重なってきているように思えて、気の毒に思えたのだ。
中学時代の思い出がフラッシュバックされる中で、あの時は本当に、
「誰でもいいから助けてほしい」
と思ったものだった。
しかし、ある瞬間から、そんなことを思わなくなってきて、
「もう、どうでもいいや」
と思うようになったのだ。
何に対しての、
「もういいや」」
と感じたのか分からない。
確かに、苛められているわけではないが、しつこく付きまとわれる感覚は、苛めに匹敵するものだと思っていたが、下手に絡むと、
「今度は、自分が苛めの対象になる」
と考えたのだ。
クラスの中で苛めの対象となっているのは、自分ではない。別のやつが、苛められていた。
「いじめっ子がいて、いじめられっ子がいる」
という基本的な構図に変わりはないのだが、実際には、そのいじめられっ子に対して、苛めているのは、本当に皆だったのだ。
「まわりの連中は見て見ぬふりをしているだけだろう?」
と思われるかも、知れないが、正直、他の連中も苛めているといってもいい感じだった。
何を隠そう、正直、佐藤も苛めていた。直接手を下すというわけではないが、苛められているのを見て、どこかスカッとした気持ちにもなっていたし、もし、苛めっ子連中が手を出さなかったら、苛めっ子連中をけしかけるように仕向けてみたり、時には自分から手を出すやつもいた。
もちろん、いじめられっ子も、自分に味方がいないことも、まわり全員から苛めの対象となっていることも分かっただろう。
幸い、自殺をするようなことはなかったが、もし、
「クラス全員が敵だ」
ということが分かってくれば、その瞬間、自殺をしたくなっても、無理もないことだろう。
「苛めを苦に自殺をした」
という話をよく聞くが、その子たちが、
「自殺を意識するようになった」
という瞬間があったとすれば、それは、
「まわりが全員敵に見えた時だ」
といってもいいだろう。
それほど、絶望的なことでもない限り、自殺を真剣に考えることもないだろう。
もちろん、自殺は最後の手段であり、それ以外に何をすればいいかということを考えるくらいのことはするだろう。
しかし、最初の頃に比べて、追い詰められていくと、その不安や心細さの度合いは、普通に比例して大きくなるわけではなく、その都度倍増していくものだ。
それだけ、自分の居場所がどんどん狭くなってくるというもので、どうにもならなくなってしまうということは分かっているに違いない。
それを思うと、
「自殺をした人たちは、判官びいきだったんじゃないか?」
彼女の言葉から、判官びいきということを聞いて、
「ハッとした」
と感じたのを思い出した。
判官びいきに対して、今では分かっているつもりだったが、付きまとわれていた頃は違う感覚だったのを思い出したのだ。
「権力のある連中が落ちぶれていくこと」
だと思っていた。
源義経が判官であるということは分かっていて、当時の歴史も分かっていた。
「兄から迫害されたことで、自分の立場を悪くした。それも、兄からくぎを刺されていた朝廷からの官位を勝手にもらったのだから、本人が悪い」
と思ったことで、
「気の毒だけど、自業自得ではないか?」
と思っていたのだ。
確かに、一番の通説はそうであり、この解釈も無理もないことだと思ったのだが、その考えが間違っていて、
「判官びいきというのは、弱い者を応援したくなる心境になっていることだよ。日本人は、えてして、弱い者を応援したくなる人種だということで、そういわれるようになったんだ」
という話を聴かされると、自分が思った解釈が違っていると感じるようになった。
「義経は、自業自得ではなく、兄の頼朝から、その手柄を妬まれたから、迫害されたのではないのか?」
と思うようになると、それまでの考えが一変してきたのだ。
そこで、義経と自分を重ねてみることで、浮かんできた発想は、
「俺は義経と一緒なんだ」
と思うと、
「俺が助かる道はないんだろうか?」
と考えた。
そこで、自分が、
「真のいじめられっ子ではない」
と考えると、自分が抱えているデッドラインは、
「まわりが全員敵だと思うか思わないか」
ということにかかってくるのだと思うのだった。
「俺は今幸いにも、苛められているわけではないので、何とかマシだが、もし、苛めの対象が自分に変わって、それまで敵でも味方でもないと思っていた連中が一気に敵に変貌すれば、その瞬間からが、デッドラインに突入した」
ということにあるのだ。
幸いなことに、中学を卒業するまでは、そんなことはなかった。
今から思えば、
「判官びいきというものを、勘違いしていた」
という意識を持つようになったからだろうか。
そんな判官びいきをなぜ感じるようになったのか、この時、少女から聞かされた言葉を考えてみたが、
「両親を見ていて、それぞれにロクでもないことを繰り返していて、そんな中に自分という存在はないんだ」
ということを感じたからなのかも知れない。
「主人公である両者の間で振り回される存在」
つまりは、義経というのは、決して主人公ではない。主人公は、
「頼朝であり、後白河法皇なんだ」
ということである。
つまり、
「義経は、二人の間での権力闘争の中に巻き込まれた一種の被害者で、そして、憎きと思っていた平家すらも、その被害者なのかも知れない」
と思うようになった。
そういう意味で、
「判官びいきというのは、頼朝と法皇の間では、義経だが、平家だって、判官びいきだといえるのではないか?」
ということを考えていた。
しかし、実際には、判官びいきということで、その対象は、義経でしかないのだ。
では、どういうことなのかと考えると、
「平家というのは、板挟みになっているわけではない」
ということになる。
つまり、
「判官びいきという言葉を使う時は、強大権力の間に挟まった場合にしか使うことはできないのだ」
と感じたのだ。
ということは、
「俺の両親に挟まれて、不幸な状態になっている俺は、気の毒だと思われる資格があり、実際にまわりから気の毒だと言われると、それを判官びいきだということになるのではないだろうか」
と考えるようになった。
「会社でも、上司だけしか見えていないが、ひょっとすると、直接の上司以外に誰か他に、直接は自分と関わっていないが、まわりから見れば、板挟みにあっているといえるような状態に陥っているのかも知れない」
と考えるようになり、
「俺は、判官びいきを受ける権利のようなものがあるのではないか?」
というおかしな感覚に陥っているのだった。
大団円