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時代回顧

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 といえるのではないだろうか?
 というのも、今までにおいて、
「歴史が繰り返されている」
 ということは、今に至るまで分かっていなかったわけではない。
 実際に歴史を勉強していると、実際に繰り返された歴史があることを分かっている人もいるだろう。
 歴史研究家の先生などになら分かっているのだろうが、いかんせん、彼らには、
「世の中を動かす力」
 というものが備わっていないのだ。
 国家を動かす政府や国会議員などに、
「モノ申す」
 という立場である、一種の、
「有識者委員会」
 というものが作られたりするが、彼らは意見は言えるが最後に判断するのは、政治家である。
 政治家にとって、
「自分たちにとって都合の悪いこと」
 というのが持ち上がれば、彼らは決して、有識者委員会の先生たちのいうことを握りつぶして、自分たちに都合のいい結論しか見出さない。
「だとすれば、何のための有識者委員会なのか?」
 ということになる。
 しょせん、世間に対して、
「我々は、専門家の意見を考慮に入れて」
 という言い訳をするためだけだろうが、そういえば、かつての、
「世界的なパンデミック」
 が起こった時も、有識者に対して、
「我々は、専門家の意見を考慮に入れて」
 と言いながら、実際には、
「まったく無視をしていた」
 といってもいいだろう。
 政府がそんなだから、世の中がよくなるわけもなく、
「迷惑ユーチューバー」
 などという、
「極悪非道な人間」
 が生まれてくることになるのだろう。
 それを思うと、
「世の中が繰り返される」
 というのが、果たしていいことなのかと思うのだ。
 繰り返られることが、
「正負の間で、水平線のようなゼロの線から沈んだり浮かんできたりするというような感じなのだろうか?」
 ということであった。
「どこかで見たようなグラフだな」
 と考えると、
「ああ、バイオリズムのグラフのようだな」
 と考える。
 ただ、この繰り返している世界が、本当に正と負の狭間で浮いたり沈んだりしているものなのかということを考えると、
「何とも言えない」
 という気分になるのだ。
「迷惑ユーチューバー」
 のような最悪の腐った人間がいるのに、実際に、世界が崩壊するようなことはない。
 かと思えば、時代としては比較的落ち着いていて、救世主と言われるような人が現れたかと思っても、世界が、はっきりとよくなるわけでもない。
「少々の力では、太刀打ちできないものなのか? 人間の限界は、その世界の中に存在するということなのか?」
 ということを考えさせられる。
 今のようなバイオリズムの世界において、いいことも悪いことも起こっていないように見えるのは、
「何がいいことで、何が悪いのかということを、自分で分かっていないからだろう」
 と思うのだった。
 つまりは、
「自分に分からないのだから、他の人に分かるわけもないだろう」
 ともいえることであり、
「しょせん、人間には、善悪の判断をする力などないんだ」
 という結論にいきつく、
 旧約聖書の、
「カインとアベル」
 であったり、
「モーゼの章」
 などで語られていたりするが、基本的に、
「善があれば、悪がある、悪があれば善我ある」
 というように対なものであり、その解釈が、どのような判断をもたらすかということは、今の時代においても、
「勧善懲悪」
 という考えかたに沿って、考えられるものだといえるのではないだろうか?
 ただ、
「迷惑ユーチューバー」
 という連中は、その、
「善と悪」
 という解釈を、自分たちに都合のいいように、
「どちらも、正義だ」
 という風に都合よく解釈することで、自分たちの正当性を証明しようとしたり、
「世間を巻き込む」
 ということで、
「俺たちは世間から認められている」
 という、民主主義の原則に切り込むことが、やつらの
「正義」
 という感覚になるのではないだろうか?
 要するに、
「冒険をしなければ、何も起きない」
 ということを、
「先手必勝」
 とばかりに、解釈させるのである。
 つまり、
「やつらには、絡まないこと」
 というのが、鉄則なのに、やつらの言っていること、やっていることに対していちいち腹を立てるのだ。
「世界的パンデミック」
 の最中にあった、緊急事態宣言中に発生した、
「自粛警察」
 なるものが、その例ではないだろうか?
 自粛警察というのは、
「本来であれば、緊急事態宣言というのは、日本では、有事がないということで、基本的人権の保障という憲法の理念から、強制はできないので、命令ではなく、要請でしかない」
 ということに対して、いわゆる、
「ほとんどの店が要請を守って閉めているのに、一部の店が開けているということが分かると、まるで自分たちが警察であるかのように、誹謗中傷を浴びせて、休業に持っていく」
 というものだった。
 休業というのも要請であるだけに、自粛警察を名乗る連中が誹謗中傷したからといって、当時の法律で、それを裁くことはできない。
 その後、誹謗中傷なるものに対しては、少しずつ法律も厳しくはなっていたが、当時においては、
「自粛警察」
 というものを、規制することはできなかった。
 そんな自粛警察というものを、いかに考えるかということになるのだが、
 彼らがどういう気持ちなのかは分からないが、
「自分たちが縛られていて我慢しているのに、罰則がないからといって、要請を守らないというのは、いいのか?」
 ということから来ているのだろう。
 迷惑ユーチューバーに絡む人たちは、この自粛警察のような気持ちなのかも知れない。
「勧善懲悪」
 という発想も関わってくるのだろうが、
「放っておくことができない」
 というのは、自分が迷惑を被っているかいないかというだけの違いで、
「自粛警察」
 と同じ発想ではないだろうか。
 自粛警察も、迷惑を被っているわけではなく、
「同じ立場なのに、あいつらだけは、どうして許されるんだ?」
 という、やっかみのようなものがあるのかも知れない。
 人間、何かがあると、やっかみであったり、不安からの疑心暗鬼、さらには、猜疑心が強くなってくるものである。
 自粛警察にしても、迷惑ユーチューバーにしても、
「時代が作り出した新人類」
 という感覚でいいのではないだろうか?
 ただ、どちらも、あまり喜ばれるものではない。特に、迷惑ユーチューバーと呼ばれる連中は、明らかに社会に対しての害を及ぼしているからだ。
 自粛警察というのも、そこまでひどくはないとはいえ、
「正義の名の下の」
 という気持ちが前面に出ているから、扱いにくい。
 決して自分たちが悪いことをしているとは、思うはずもないからだ。
 その思いがあるからこそ、
「時代というものが作り出した、虚空の正義感」
 というものが、見え隠れしているように思えてならないのだった。
「許されないはずのものが、許されてしまう」
 それが今の時代であり、
「民主主義の行き着く先だ」
 ということになると、
「もう、何を言ってもしょうがない」
 と考える人が出てくることだろう。
 特に今の時代になると、
「誹謗中傷」
作品名:時代回顧 作家名:森本晃次