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時代回顧

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 つまりは、
「本当はどこでも起こっていることで、今に始まったことではない」
 といえることではないのだろうか?
 ゴキブリなど、
「1匹みつければ、数十匹潜んでいると思え」
 などと言われるではないか。
 それと同じで、
「1件の事件があれば、数十件の事件が潜んでいると思え」
 と言われているのと同じである。
 ちなみに、これは、
「事故でなく、事件だ」
 と思っている。
 人災と呼ばれるものは、事故ではなく、事件だと考えるからである。
 人災というのは、
「防ごうと思えば容易に防ぐことができたものを、ちょっとした注意を怠った」
 などということで。防ぐことができなかった場合を、事故というのは、何とも甘い考えではないかということである。
 事故といってしまうと、人間が悪くなく、
「防ぐことのできなかったもの」
 ということになるが、子供を幼稚園バスに閉じ込めて気づかなかったなどというのは、本当に防げたことであり、いくら、どんなに忙しく大変な職務であったとしても、少なくとも、
「幼稚園」
 という看板を掲げ、安心安全を保障するということで、子供を預かり、面倒を見るという見返りで、保育代を頂戴しているのだから、預かった子供を、
「人数が多いから」
 あるいは、
「先生が少なく大変だから」
 などという理由で死なせてしまったというのは、いくら不可抗力の過失だったとはいえ、許されることではないだろう。
 少なくとも、過失であっても、
「業務上」
 という言葉がつく。
 業務上ということになると、その罪は、普通の過失とは雲泥の差くらいのものはあるだろう。
 しかし、過失である以上、
「故意ではなかった」
 とみられ。かなり罪の重さには、かなり軽減があるだろう。
 だが、ここまでくれば、マジで、許されることではない。
「問答無用で、殺人として、裁判を行ってほしいものだが、実際に判決が出てみると、懲役も3年前後で、しかも、執行猶予がついたりする」
 というものだ。
 それでも、その幼稚園が危機的状況にあることは間違いないだろう。時代が、いくら他に幼稚園が急遽見つからないとはいえ、半分くらいは辞めるに決まっている。ただ、そうやって溢れた園児を他の幼稚園に考えもせずに放り込んだりすると、二次災害として、
「また同じことが起こらないとは言えないだろう」
 ということにあるに決まっている。
 それを考えると、
「本当に社会問題というのは、なかなか収まることはないだろう」
 といえるのではないだろうか?
 そんな社会問題を抱えている世の中で、今度は、実際に、学校閉鎖であったり、保育園が休業要請に従ったりで、預けるところがなくなった時期があった。
 というのも、
「緊急事態宣言が発令される前に、学校閉鎖というものがあった」
 からであった。
 学校閉鎖になった時期は、さすがに伝染病が増え始めてから世の中が不穏になりかかっていた時期だったが、何が悪かったのかといって、一番は、
「政府というよりも、当時のソーリが勝手に決めてしまった」
 ということがまずかったのだ。
 ソーリの片腕と言われていた、次期ソーリになることになる、当時のカンボーチョーカンもそのことを知らなかったくらいなので、国民もマスゴミも、
「寝耳に水」
 のできごとだったのだ。
 確かに、当時としては苦肉の策だったわけで、仕方のないことだったかも知れないが、他が知らないということはどういうことか?
 さらに、もう一つの問題は、
「海外の要人、しかも、このパンデミックを引き起こしたかも知れない」
 と言われた国の国家元首を、国賓として招こうといっていたくらいに、ザルであった、
「水際対策」
 をどうにかしなければいけない立場にありがなら、そっちを放っておいて、まず国民を締め付けるというのは、本末転倒もいいところで、しかも、それをマスゴミも、世間も叩かなかったので、まさかとは思うが、
「批判をごまかすための狙いがあっての、いきなりだったのではないか?」
 と疑いたくもなってくる。
 とは言っても、その可能性は低いだろう。
 というのは、
「それだけの悪知恵が働くほとの、ソーリではなかったはずだ」
 というのが、実感である。
 それだけ頭が働くなら、あれほどの疑惑に塗れた姿を国民に見せるわけはない。どれだけの疑惑があったというのか、一つだけでも、辞任に値するような内容が5つくらいはあっただろう。それこそ、前述の、
「ゴキブリの理論」
 ともいうべき理屈に沿うというもので、
「5つ近い疑惑があったなら、もっとたくさん疑惑に塗れているに違いない」
 と、見えていない部分が、もっとたくさんあっただろうことは、容易に想像がつくというものである。
 実際に、疑惑の多いソーリであったが、注目を浴びることもあり、よく見ていると、
「どこか、何かが変だ」
 と思えるようなところがあった。
 というのも、このソーリのやり口には、
「わざとらしい」
 と思えるようなところが随所にあったのだ。
 ただ、これまでの首相などであれば、
「本当にやっているんじゃないか?」
 と思えると、すぐにその化けの皮が剥げたものだったが、このソーリの場合は、
「疑惑は多いが、すぐに剥げるような化けの皮ではない」
 ということであった。
 要するに、それだけ、今までの首相が、
「悪事に関してはへたくそだった」
 ということであろう。
 かつての首相をいいやつだとは思わないが、少なくとも、このソーリに比べれば、
「人間臭い」
 といえる。
 悪事に関して、ここまで悪賢いソーリは、本当の悪党であり、なかなか尻尾を出さないところは、
「いざとなれば、誰かに死んでもらえばいい」
 とでも考えるような、まるで、封建時代の時代劇に出てくるような、
「悪代官」
 だったのだろう。
 取り巻きの中には、
「殺し屋や、諜報部員」
 のような、悪党団体に所属している連中がいるということで、
「勧善懲悪」
 をテーマにしたドラマを作れば、きっと、それなりの視聴率を稼げるような番組ができるに違いないだろう。

                 煽り

 スペースというのは、一種の音声チャットなので、
「集団が生まれる」
 ということと、
「顔が見えない。匿名性になっている」
 ということで、普通のチャットや、掲示板と変わりはないわけだ。
 だから、気軽に仲間を作ることができるし、一歩間違えると、
「敵を作ってしまう」
 といえるのだろう。
 スペースをやり始めると、自分でも分かっていたことだが、嵌ってしまう。毎日のようにやっていると、まるで麻薬のように抜けられなくなってしまう。最初こそ、いろいろな人と話ができるのが楽しいということになるのだが、気が付けば、いつものメンバーで固まってしまうというのが普通になるのだ。
 それは、
「安心感」
 というのが、一番に来るであろう。
「元々、ツイッターというものをなぜ始めたのだろう?」
 そう感じている人がどれだけいるだろうか?
 いろいろなSNSの中で、一番気軽に始められるものではないかと思う。自分のページを作って、ただ、呟いていればいいだけだからである。
作品名:時代回顧 作家名:森本晃次