マルチリベンジ
であったりするところが、放映権を持っているのか、実況している。
「やはり、地域の代表や、母校の応援などということで、高校野球は人気がある」
ということであろう。
しかも、国営風放送局は、コマーシャルがないので、空き時間のようなものがない。
そもそも、民放のコマーシャルというもの、あんなものを誰が見るというのだろうか?
正直見ていても、
「何が楽しいんだ?」
としか思えない。
アイドルや、イケメンが出ていると、確かに、若者などは見るかも知れないが、
「だから?」
と言われてそれまでである。
確かに見ることは見たとしても、
「その商品を買うか?」
と言って、まず買わないだろう。
もちろん、買う人もいるだろうが、それは、コマーシャルを見るから買うわけではない、確かに、似たような団栗の背比べのような商品であれば、
「推しが宣伝しているものを買おうかな?」
と思うだろうが、正直、そこまでこだわることはないだろう。
明らかに、使い勝手の良さは人によって違うだろうから、一概には言えないが、その人にとって一番と思えるものを買うだろうから、CM効果というのは、それほどでもないのではないだろうか?
「頭の片隅にちょっと残った」
という程度で、スーパーなどに買い物にいけば、そんなことはあまり頭になく、それよりも、
「どれが安い?」
「どれが売れてる?」
という形のものを探すことになるだろう。
それを思うと、
「コマーシャルの効果よりも、実際に商品を目も前で見て感じる方が、圧倒的に強いと思うのだった」
ただ、スーパーなどでは、宣伝として、CMに出ている俳優のポスターやパネルなどを使って、
「CMで話題の」
というポップをつけて、実際に有名かどうかは別にして、あたかも売れているかのような演出をするに違いない。
だから、そういう意味で、CM効果というのは、一定レベルであるのではないだろうか?
しかし、実際にCMに入ると、たいていの人が、そこで白けてしまうだろう。
特に最近増えてきたバラエティ番組などでは、何を考えているのか分からないが、放送の構成の中で、
「ちょうどいいところで、CMに入る」
というものだ。
視聴者に期待を持たせるところでCMに入るので、そこで、チャンネルを変えるわけにもいかない。例えばクイズ番組なので、尺を持たせるということなのか、回答に近づいた時、やたらと、CMで引っ張ったりする。
確かに、何度もCMに入られ、答えが出そうなところで引っ張られると、
「えい、くそっ」
とか思うのだが、チャンネルを変えるに変えられない。それが、放送局側のトラップのようなものだといってもいいだろう。
ただ、それは、昔のように、
「テレビは見るが、どのチャンネルにするかは、その時の心境」
と思っている場合はそれでもいいかも知れない。
昔であれば、
「二時間サスペンス」
などを、夜9時から11時までやっているとすれば、他の局が、一時間番組を組んでいるとして、大体、50分すぎくらいに、放送が終了するとして、わざとちょうどそのタイミングくらいに、女優の入浴シーンなどの、目を引くシーンを入れておくと、チャンネルを探していた人の手が、そこで止まり、今度は途中からであっても、その番組を見てしまうという、男のいやらしい心理を突くという、あざとい方法が取られたりしたものだ。
特に、勧善懲悪が売りの時代劇などで、主人公が、
「印籠」
を見せたり、
「背中の桜吹雪」
を見せ、ちょうと、悪者を懲らしめる時間をいつも同じくらいの時間にあてているという、完全ともいえる、ワンパターンな番組であるが、日本人、特に年配には、圧倒的な人気があった。
だが、逆に、人によっては。
「45分くらいから見始めても、肝心な部分が見れるから、気分がスカッとする場面を見ることができる」
として、バラエティをやっていれば、ちょうどその時間にチャンネルを回す人も多かったことだろう。
だから、ちょうどそれくらいの時間に、他のチャンネルの視聴率が少し落ち、その代わり、
「勧善懲悪の時代劇」
の視聴率が、爆発的に伸びることで、平均視聴率では、そこまでなくとも、瞬間視聴率は、
「いつもトップ」
ということになるであろう。
それが、テレビというものの面白いところだが、そんな鉄板だと思われた時代劇も、ここ10年くらいで、放送されなくなった。
これも野球と同じで、
「映画や時代劇などの専門チャンネルが、有料放送でできたので、皆そっちに流れた」
ということであろう。
そもそも、末期の時代劇というのは、年配向けというよりも、若者向けだった。
それこそ、アイドルやイケメンがたくさん出ていて、若者の視聴者獲得を狙うという、本当に末期の気違いじみた発想だったといってもいいかも知れない。
それを思うと、
「時代劇は、ずっと血を流しながら続けてきたようなものだ」
ということであった。
それを聞くと、昔の特撮で流行った有名な言葉を思い出した。
「血を吐きながら続けるマラソン」
という言葉があった。
その言葉の意味としては、昭和の昔、第二次大戦後に起こった、
「東西冷戦」
つまりは、民主主義陣営と社会主義陣営の争いがあったのだが、それは、超大国として君臨していた、
「ソ連とアメリカ」
の対立であった。
そこで、両国は、直接対決はしないが、いろいろな科学技術で争っていたのだ。その代表例が、
「核開発競争」
であり、
「宇宙開発競争」
であった。
核開発とは、まさに、原爆、水爆開発で、いたるところで核実験を行っていたのだ。
「放射能の問題がある」
と言われているのにである。
宇宙競争も、核開発に似たところがあった。
「宇宙ロケットの開発は、大陸間弾道弾である、ICBMの開発に直結する」
というもので、結局は、核開発であったのだ。
そんな核開発競争を皮肉った言い方が、
「火を吐きながら、続けるマラソン」
ということであった。
こちらが開発をすれば、向こうはさらに強力なものを作る。するとこっちもさらに強力なものを……。
ということになるのだが、それは、世界滅亡への階段を昇っているという意識から、そう言葉を使ったのではないだろうか?
そもそも、核兵器開発というものを、どちらも危険視していなかったのは、
「超兵器を持っていれば、相手がむやみに攻撃してこなくなる」
という、いわゆる、
「抑止力」
が、あったからで、まるで、
「一つの檻の中に二匹のサソリを入れるのと同じだ」
というたとえ話があった。
サソリは、お互いに相手を殺すだけの力はあるが、それは、同時に自分も殺されるという危険を孕んでいるということだった。
だから、力が互角であれば、気を抜いたほうが負けるといってもいいだろう。相手が鉄壁の防備をしてくれば、迂闊に手を出すことはできないし、相手も攻撃できないという、緊張が張り詰めた異様な雰囲気の世界であろう。
つまりは、
「世界中が緊張の糸を張り詰めた状態だった」
ということであろう、