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マルチリベンジ

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 辛さというものが、一体どういうことなのかということを、この二軍生活で分かった気がした。
「その時の辛さが一番つらいもので、過去に味わった辛さがどんなにきつくとも、あくまでも、今への前哨戦でしかない」
 と思うようになってきた。
 そう思ったのは、そもそもの転落の最初だった、
「2年目のジンクス」
 だった。
 あの時は、
「自分がまさか、二年目のジンクスに引っかかるとは、思ってもみなかった」
 という感覚だったが、それよりも、まず、
「二年目のジンクスなどというものは、迷信であって、そんなものが本当に存在するなんてビックリだ」
 ということを感じた。
 一軍で、あれだけできた1年目で、自信がそのまま過剰になってしまったということは、自分でも認めざるを得ないだろう。
 しかし、まさか、
「同じことをやっているのに、なぜ去年と違うんだ?」
 と感じたのだ。
 確かに、
「一年目を研究されて、二年目に自分が思っているようにはいかない」
 ということが、
「二年目のジンクス」
 ということなのだ。
 というような話を聴いたことがあったが、本当にそんなことが起こるとは、信じられなかった。
 だが、考えてみると、こちらには、その防御方法などあるわけはない。何しろ、相手が研究してくるとしても、いかな方法を取ってくるか、自分には分からない。自分の弱点を知っていて、そこに対する対策を取ったとしても、相手は全然違う方法で来たとすれば、まったく防御にはならないからだった。
 だから、できるとすれば、
「二年目のジンクスをいかに生え返すか?」
 ということであり、二年目は受け身でしかなかった。
 理屈はそうなのだが、それを考えていると、少し虚しさもあった。
「これだったら、毎回、相手との駆け引きに終始するばかりではないか?」
 ということであった。
 というのも、
「俺は野球選手で、ずっと野球しかやってこなかったので、そんな頭を使うようなことができるだろうか?」
 という考え方から、
「毎回毎回、そんな腹の探り合いのようなこと、何か嫌だな」
 と思うようになった。
 野球をやっている時は、
「どんとこい」
 という感じで、何であっても受け止めるというような精神状態なのであったが、実際には、小心者で、考えることが、それほど深くなくとも、同じところをクルクルまわるという、堂々巡りをいつも繰り返しているような、そんな繊細な神経の持ち主だったのだ。
 それを今まで見せなかったのは、野球において出来上がった、
「自信」
 だったのだろう。
 自惚れや、自信過剰は多々あったが、それも自分で悪いことだとは思っていなかった。
「自惚れも自信過剰も、それで自分が成長できるのであれば、それでいいじゃないか」
 というものだった。
 それらが自分に影響してくることとして、どちらかというと、
「敵を作る作らない」
 という方にくるだろうと思っていたので、言動には注意をするようにしていた。
 余計なことをいうと、敵を作って、自分が苦労するだけだ」
 と、子供の頃から言われていて、他のことはいざ知らず、これだけは、守るようにしていたのだ。
 それが幸いしたのか、これまで言動にて、炎上したり、人の恨みを買うことはなかった。
 中には、マスゴミにいいたい放題に話をして、案の定、炎上してしまう人がいたが、そういう人は、何度も同じようなことを繰り返している。
「本人が分かっていないのか、それとも、生まれつきのくせなのか?」
 のどちらかなのだろうとは思ったが、実際にはどちらなのかということは、正直分からなかったのだ。
 選手として、プロ野球界に君臨している先輩たち、中には、大きな口を叩いている人もいるが、それは、数年実績を重ねてきている人で、マスゴミによっては、炎上として報道しているところもあるが、ほとんどのところは、
「その言動も、実力のうち」
 ということで、選手としての栄光への道を歩んでいる中での一つの、
「武勇伝」
 のようなものだといってもいいだろう。
 戸次は、そこまでの選手でもない。今までプロ野球界でも、
「一年目、大活躍をして、その後、どんどん、尻すぼみになってしまい、そのまま引退してしまう」
 という選手が山ほどいた。
 自分がまさか、そうなりそうなところにいるというのは、正直ショックなことであったが、まだなったわけではない。
「これからの自分をいかに見つめるか」
 ということなのだろうが、精神的にかなりきついのは、当然のことだった。
 ただ、成績が悪くなった最初の頃程、
「自分が難しいことは分からない」
 という気持ちがやわらいできた。
 それは、
「考えることから逃げていた」
 というのが、今から思えば、本音だったのではないかと思うのだが、確かに、二軍に落ちてしまって、最初、焦っているつもりはないのに、
「本当は焦っていたのではないか?」
 と思うと、
「何かから逃げていた」
 というよりも、
「すべてのことから逃げようとして、その逃げているものを一つに絞りたくない」
 という意識が強かったのではないかと思うのだった。
 だから、焦りを感じたくなかったのであって、焦っていると思うと、その時点で逃げられない、いや、一定の答えを用意しなければ、
「何かに追いつかれてしまう」
 という恐ろしさがあったのだ。
 その何かというものの正体が分からない。
 分かっているからといって、怖くないわけではないのだが、分からないよりは、ましなのだろう。
 そんなことを考えていると、
「野球というのは、考えるスポーツなのかも知れないな」
 と感じるようになった。
 だからといって、
「何をどのように考えなければいけないのか?」
 ということが分かるはずもなく、ただ、
「考えるというくせのようなものをつけないといけないんだろうな」
 というような、漠然とした考えが浮かんできたりするのだった。
 まず、手術に全力を注ぎ、さらには、リハビリが待っている。それを乗り越えることで、やっと、復活が見えてくるのだ。
「復活への切符が手に入る」
 ということであり、
「復活が約束された」
 というわけではない。
「これからも、投げ続けることができる」
 ということであり、
「今までのような活躍ができるわけではない」
 ということなのだ。
 つまりは、物事が先に進むにつれて、自分が思い描いていることが、すべて成功に結び付くわけではない。もちろん、ことごとく失敗するわけでもないが、今までは、なるべく考えないようにしてきたことから、本当は分かっているのに、分からないつもりでいた。
「それが野球選手というものだ」
 と感じた。
 ちゃんと分かっていることを認めてしまうと、選手として、せっかく持っている、
「闘争心」
 が、うまくいかなくなると思っていたのだ。
 逆の意味としての、
「逃走心」
 というダジャレに変換されてしまいそうで、それが嫌だったのだ。
 確かに、今までの自分は、闘争心の塊だったかも知れない。しかし、そこは、裏を返せば、心のどこかで、
「逃走心」
 というものを思い浮かべていたのではないかと思うと、ちょっと悪い兆しが見え始めた時、本当は、
作品名:マルチリベンジ 作家名:森本晃次