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一蓮托生の息子

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 最初から、こちらが小説を書いているということが分かっていて、分かっていたからこそ、その話題に載せて、自分のことを自然に話すことができたのだ。
 つまり、
「こいつは、自分のあざとさを消すために、俺の行動に便乗して、相手に、自分の自慢話になることを自然な流れで持ってきたというような考え方になった」
 という思いである。
 ということを考えると、吉松という男は、
「自分が出しに使われたり、利用される」
 ということが許せないタイプなのであった。
 普通なら、そんなに怒らないのだが、
「こちらが気づいていないと、思っているのをいいことに、自然な形で出しに使ってやろう」
 ということを考えてしまうのだろう。
 そんなあざとさというものを、嫌いになったのは、そのあざとさというものをまったく考えてこなかった性格だったからだ。
 中学時代、高校時代などは、後から、自分が利用されたということに気づいたとしても、それがどこからなのか分からないから、きっと、
「あいつは楽に利用できる」
 ということが、吉松本人の知らないところで言われるようになったのではないだろうか?
 それが、子供の頃の、相手もこちらも意識しないということに結びついて、下手をすると、それが苛めというものに結びついてくるのではないだろうか?
 余計に大人になると。
「この人との今後の自分」
 ということを考えてしまう。
「二度と遭わない」
 と果たして言い切れるのかということは、30代中盤くらいまでは、考えたかも知れない。
 しかし、30代後半以降は、
「二度と会う会わないは、あまり関係ないのではないか?」
 とも思うようになった。
 というのも、実際の友達というのもいなくなり、結構というものに対しても、執着がなくなってくると、人との付き合いは、それこそ、
「一期一会」
 のようなものでいいと思い始めた。
 本当は、違う意味だということはもちろん分かっている。しかし、今の時代は、ネット時代で、個人情報も相手に教えないのが当たり前。つまり、知り合いというと、
「ネットの友達で、顔もどこに住んでいるか分からない人」
 ということになる。
 もし、近くに住んでいたとして、親友だと思っていたとしても、例えば、
「同じ女性を好きになったとして、果たして、その好きになった女性と、友達との間でジレンマに陥るだろうか?」
 と考えた時、
「俺だったら、彼女をほしいと思うだろうな?」
 と考えるのが普通だ。
 だが、もう少し考えると、
「その女性は彼女として好きになったのであって、もし、結婚を迫られればどうしようか?」
 と考えたとすると、友達を捨ててまで選んだ彼女を、ずっと好きでいることができるだろうか?
 本当に好きであったとしても、結婚となると話は別である。
 家族や、まわりの人のこともある。その考えが古臭いのだとしても、彼女とだけの人生を考えた時、先が見えてくるのだろうか?
「欲しいと思っているものを手に入れることができると、必ずそこに、最初に思っていたこととのギャップが生じ、先が見えるか見えないかということで、結局、悩みが尽きないだろう」
 ということに気づかされると、結果として、自分の選択の間違いが取り返しのつかないことを招いたと言えなくもない。
「人間というものは、飽きが来る動物である」
 といえる。
 相手のことが好きで好きでたまらないとすれば、その時がピークなのである。それ以上の上を望むことはできないので、後は、下がっていくばかり。
 特に、結婚適齢期というのは、動物における発情期のようなもので、
「好きになったその人をどこまで、そしていつまで好きでいられるか?」
 ということであり、
「好きという感情が、結婚のすべてではない」
 ということに、いずれ気づくのだ。
 子供ができたりすれば、特にその傾向は顕著に表れてくるというものだ。
「しょせん、夫婦は他人。子供は血が繋がっているということで、夫よりも子供なんだ」
 と言われるが、
「血のつながりって、本当に感じるものなのか?」
 と思う。
 血のつながりというよりも、
「自分が苦痛の元に、自分の力でこの世に生み出した」
 という感情が強く、まるで、
「自分で設計したロボットが完成した時の感情」
 といってもいいかも知れない。
 もちろん、
「自分の分身」
 という意味であるが、
「その考えはアッサリしすぎ」
 というのであれば、
「血のつながりというのと、果たしてどう違うというのか?」
 ということになるのだろう。
 吉松が、一番嫌いなタイプの人間は、
「あざとい」
 と言われるような人である。
「分かっていて、やっている」
 という対応で、自作自演というか、劇場型というか、そんなタイプの人間であった。
 そういう人に限って、二重人格だということもありえるだろう。
 二重人格に関しては、自分にも言えることなので、余計なことは言えないが、まさにその通りだという気持ちに変わりはないのだった。
 ただ、二重人格というのは、自分のことを、
「二重人格だ」
 という自覚を持っている人は、他人が二重人格だということは分かっても、その真髄が分からないかも知れない。
 それは、
「自分が二重人格だ」
 という意識はあっても、その裏で、そのことを認められない自分がいるということである。
「二重人格だ」
 と分かったとして、どういうタイプの二重人格なのか、今自分で感じているもう一人の自分は、正反対の自分だと思う。
 しかし、その正反対の自分というものをハッキリと自覚できないのだ。それを自分なりに理解しているのだとすれば、ある意味、
「途中までは、自分を理解しているのかも知れないが、その先がまったく分からない」
 ということの典型ではないだろうか。
 自分で理解しているところが、自分のすべてだと思っている人は、きっと、
「そこが限界だ」
 と自分で思っていることだろう。
 しかし、
「先は見えないが、まだ先があると思っている人には限界が見えていないから、その先にある漠然と感じる、もう一人の自分が分かってきているのではないか?」
 と思うのではないだろうか?
 先を見るのも、大切なことなのかも知れないが、
「世の中には知らなくてもいいことがある」
 という人がいる。
 その人は、自分なりの悟りを開いている人なのかも知れないが、その人はきっと、自分の限界というものを信じていないのだろう。
 つまりは、
「限界だと思っていることでも、その先に見えるものがあり、先を見ようとすることで、不吉な想像しかできないのであれば、知らなくてもいいものがあるという発想も成り立つのではないだろうか?」
 と、そんなことを考えていると、二重人格というものの、カラクリのようなものが、臼らと見えてくるのではないだろうか?
 カラクリなどという大げさなものではないのだろうが、
「人の様子を見ているだけで、もうひとりの自分が見えてくるという、一種の影のような考え方」
 というものがあるという発想である。
 そんなことを考えていると、
「もう一人の自分」
 という意味での、ドッペルゲンガーというものと、ここでいう、
作品名:一蓮托生の息子 作家名:森本晃次