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一蓮托生の息子

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「有名書店に一定期間並ぶ」
 という甘い言葉に皆引っかかったのではないかと思えるのだ。
 その証拠に、詐欺集団が、実際に詐欺として、表に出てきたのは、本を出した人たちが起こした数件の訴訟であった、
 その内容は、
「一定期間、有名本屋に並ぶ」
 といううたい文句が実証されていない。
 ということからだった。
 読者も独自の手法で調べたのだろう。自分の本が並んでいないことをである。それを弁護士に相談して、訴訟を起こしたのだろうから、その掴んだ証拠は、信憑性があるというものなのだろう。
 なぜなら、
「弁護士というところは、勝てる見込みのないものを、引き受けることはしない」
 からである。
 その代わり、引き受ければ、弁護士は、依頼人の利益を守るためには、何だって行う。
 もし、残虐な殺人犯だということが分かっていたとしても、無罪に持ち込もうと暗躍したりするからだ。
 弁護士は、聖人君子でも何でもない。倫理やモラルなどよりも、金なのだ。だから、弁護士が引き受けたということは、裁判をやって勝てる見込みがない限り、引き受けたりなどするわけはないのである。
 この場合は、当然のことながら、筆者側が強いだろう。実際に、裁判をやっているうちに、出版社側は、マスゴミから今度は、
「被告」
 として、騒がれることになる。
 すると、他の作者も、どんどん裁判を起こすようになり、数十件にまで訴訟が広がったりしていた。
 完全に虫の息という感じになってしまったが、さらに問題なのは、奴らの経営方式というものが、
「自転車操業だった」
 ということである。
 つまり、
「本を出したい」
 という人が増えて、なんぼということである。
 彼らの支出というのは、一番大きなものから、まず、宣伝広告費であろう。新聞、雑誌、CMなどを使って、
「小説家になりたい」
 という最終目標を持っている人を煽る。
 そして、原稿を遅らせると、安心させるためもあって、歯の浮くようなセリフの並ぶ批評をするそんな社員も抱えることでの人件費というものも必要である。
 その人たちは、ひょっとすると、一度は新人賞に入賞し、次のステップに向かうことができたが、やってみると、
「まったくそこから先、限界を抱えてしまった作家くずれ」
 のような人が、世に溢れているのを、採用したという可能性もあるだろう。
 いわゆる、
「売れない作家」
 というわけだ。
 プロ野球の世界などでも、アマチュア時代には、それなりに有名な選手で、ドラフトでプロから指名され、鳴り物入りで入団したはいいが、結局、万年二軍くらしで、最後には、球団から、
「再契約打ち切り」
 を言われ、さらには、トライアウトにも挑戦したが、どこからも誘いが来ずに、野球界から引退するというそんな人と同じだといってもいいだろう。
 しかし、作家としてのプライドもあるのか、
「文筆業に関わる仕事」
 ということで、
 いわゆる、
「下読みのプロ」
 と呼ばれる人になったりする人もいるだろう。
 下読みのプロというのは、新人賞や文学賞というものがあれば、一次審査から、二次と経て、最終審査になる。
 実際に、募集要項に並んでいる審査員である作家の先生というのは、最終審査でしか、その作品に目を通すことはない。
 考えてみれば、当たり前のことで、それぞれの審査に同じ人というのであれば、本末転倒だということだ。
 つまりは、一次審査というのは、作品の内容はまったく関係がなく、
「文章として体裁をなしているか?」
「小説としての内容になっているか?」
 ということを見るだけで、そこに目を通すのが、
「下読みのプロ」
 と呼ばれる人たちである。
 彼らは、あくまでも、小説家である必要はない。
「質より量」
 とはまさにこのことで、一人、数十人分を一定期間に読んで、点数をつけるというような感じなのだろう。
 あくまでも、体裁だけしか見ないのだ。
 だから、そんな連中に判断される一次審査は、ある意味、昔やっていたクイズ番組における、
「じゃんけん」
 のような、運という意味の方が大きいだろう。
「どの下読みのプロに当たるか」
 ということで左右されるだけである。
「ろくでもないやつに当たってしまえば、本当にロクなことにならない」
 それだけのことである。
 そんな連中に審査されて、一次審査を通過できなくても、別に自信を無くす必要もないだろう。
 確かに、一度は新人賞を取ったかも知れない。
 それよりも、そんな連中が、下読みのプロに成り下がってしまったことの方が大きな問題で、
「まるで、自分の将来を見ているようだ」
 といって情けなくなるだろう。
 いや、それ以上に、
「そんな下読みのプロが入選した賞に、入選もできないでいる自分がどれだけ情けないということか?」
 ということの方が、正直情けないといってもいいだろう。
 そんなことを思っていると、
「プロ作家」
 というものが、
「どれほどの檀家をふまないといけないか?」
 ということであり、さらに、
「そこに行くまでに、いくつの運が必要なのか?」
 ということを考えると、次第にバカバカしくなってきた。
「そもそも、小説というのは、自由なものだ」
 と思うと、
「プロになると、書きたいものが書けなくなる」
 と言われていることも気になってきたのだった。
 確かにプロになると、
「出版社が、主導権を握り、企画を出しても、何度もダメだしされ、結局、自分の書きたいものがすべてなくなった時点で、やっと書きたくもないものを出して、OKが出る」
 というようなことになってしまうのである。
 何とも皮肉なことであるが、それが、
「作家というものだ」
 ということになると、本当に情けなさを感じるだろう。
「プロ作家」
 ということになると、当然、その忙しさは仕事をしていてできるのもではない。
 それまでしていた仕事を辞めて、プロ作家一本で、普通だったら、するだろう。
 昔であれば、
「ホテルマン」
 などを続けながら、作家をしている人もいたが、それはきっと、
「小説を書く上での、自分の小説に、ホテルマンという職業が役になっている」
 ということか、あるいは。
「出版社の意向」
 というものが、ホテルマンという職業にあるからではないだろうか?
 あくまでも、作家本人というものとは関係なくである。
 そう思うと、
「作家というものの人権は、プロ作家になった時点で、存在するのだろうか?」
 ということである。
 プロ作家が、その出版社専属ということになると、社員としての待遇よりもさらにひどいものである。
 そう、一種の、
「下請け」
 というものであろうか。
 親会社が、面倒なことを、子会社に、さらに孫請けに回すというのはよくあること。相手が企業であればまだしも、個人という生身のものであれば、まるで、作家というのは、
「出版社の奴隷同然」
 ということにならないだろうか。
 そういえば、締め切りが近くなると、
「出版社から監禁状態にされ、担当者が見張り役として、身構えている」
 という、作家の悲哀としてよく言われていることだろうが、ほとんど皆にとっては、
「自分には関係ない」
作品名:一蓮托生の息子 作家名:森本晃次