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一蓮托生の息子

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 もちろん、小説に限ったことではなく、何かを目指すというのは、似たようなものである。
 いくつも存在する関門の最初というのは、一番苦しいものであり、ハウツー本には書かれていることであるが、それはあくまでも一般論であり、少なくとも、本人による創意工夫ができていなければ、通過することはできない。人から、差し伸べられる手があったとしても、最後には自分だけの力となる。それだけ、突破には本人の意志と、発想力が必要だということであった。
 彼も、最初は、
「プロの小説家になりたい」
 という意思を持っていて、ハウツー本を読んだり、自分の得意とするジャンルの、販売されている本などを読んで勉強したりしていたが、そのうちに、それらのものを読むのもやめたのだ。
 自分の目指すジャンルであっても、作家にあるには、
「自分のオリジナリティ」
 というものを持っていなければ、先に進むことはできない。
 実際に、小説を書いていると、気付かない間に、自分のオリジナリティが出てきていることが分かるのだ。
 それが、くせであり、特徴ということでもあるだろう。
 小説を書けなくなる時期もあった。それは、自分が目指しているものが書けなくなるというよりも、どうしても、今まで他の人の小説を読んできた中で、
「こういう書き方をしないといけないんだ」
 という自分の中で意識のようなものがあったのだ。
 その意識を、
「間違ってはいない」
 と思って、そこを目指していたのは事実だったが、そもそも、人の作品が正しいというわけではない。
 小説というのは、元来自由なものであり、自分が目指す小説が、
「絶対に正しい」
 というわけではなく、他の小説が、
「すべて、間違いだ」
 などと、そこまで考えていたわけではないが、一つの目標として進んでいくことは事実だった。
 小説というものをいかに自分のものとして書いていくというのかということは分かっているはずなのに、
「人を意識してしまう」
 さらには、
「売れている本は、いい本だ」
 などという、どこか偏見に近い見方をしているというのは、
「小説というのは、売れなければいけないんだ」
 という、プロ作家というものを、必要以上に意識しているのではないだろうか。
 そもそも、
「小説は書き上げることができるだけで、すごいことなんだ」
 と思っていたはずではないか。
 確かに最終目標のために通る最初ということではあるが、あくまでも、そこが、将来への分岐点であり、すべては、そこに返ってくることであり、本当の意味での、
「登竜門の、最初で最後」
 だといえるのではないだろうか?
 だが、あくまでも、
「小説は自由だ」
 という意識を持って書いているくせに、いい小説というものを、
「売れる小説」
 という、それこそ、
「プロ作家が考える」
 というような発想を、素人の分際で考えているというのは、ある意味、おこがましいといえるのではないだろうか。
 実際に、小説を書いては添削し、新人賞などに応募したりした。
 今では、毎月のように、いくつかの新人賞や文学賞の締め切りがあるというような時代である。昔のように、
「年間で、10くらいしか締め切りがない」
 というような時代ではなかった。
 最初に小説を書き上げられるようになってから、十年以上が経っていた。
「小説を書けるようになりたい」
 と思い、試行錯誤を重ね、書き上げられるようになるまでに、数年。
 もちろん、途中で挫折して、何度もやめてしまった経緯があったが、結局また戻ってきた。
 最初は、何度も何度も諦める自分に、
「俺は芸術的なことには向いていないのか?」
 と思ったが、書き上げられるようになると、今度は、
「どんなに途中で投げ出す結果になっても、また始めようと思い、結果的に書き上げられるようになったのだから、これからも、小説を書いてもいいんだというお墨付きをもらったのだ」
 ということだと理解するようになった。
 やはり、そういう謙虚さがあってしかるべきで、その謙虚さは、登竜門というものを抜けたことで、初めて感じられるというものであろう。
 それが、自分に対しての自信にもつながり、書いていてもいいという感情は、検挙さに繋がるのだろう。
 そんなことを考えると、登竜門を乗り越えた自分に、
「これで、よほどのことがなければ、辞めてしまうようなことはないだろうな」
 と感じたのだ。
 それは、あくまでも、
「プロ作家になれる、なれない」
 ということとは切り離してのことである。
「プロになれなくても、小説は自由なんだ」
 と思っていると、
「俺は別にプロになりたい」
 と真剣に思っているわけではないということに気づいた気がした。
「小説を書き続けられればいい」
 という思いと、
「小説家としてではなく、アマチュアでもいいから、自分の本を出せるだけで、それでいいんだ」
 とも思ったのだ。

                 馴染みのカフェ

 そんな時に、出てきたのが、
「自費出版社系」
 という、一種の、
「詐欺商法」
 だったのだ。
 やつらのやり方は実に巧みだった。
「小説家になりたい」
「自分の本を出したい」
 という気持ちを巧みに利用していた。
 小説家になりたいという気持ちを揺さぶるというよりも、まずは、本を出すことを前面に押し出していた。
 原稿を送ってこさせ、その内容を吟味して、批評をつけて、送付者に返すのだ。
 その批評も、最初に欠点を挙げて、少し残念であることを書いたうえで、
「そういう欠点を補ってあまりあるあなたの長所」
 ということで、
「まるで重箱の隅をつつくような、いや、すべての痒いところに届くような手を用いて、相手のいいところを、どんなに小さなことでも、破裂寸前になるくらいにまで膨らませて、褒めちぎる」
 というやり方で、相手をその気にさせるのだ。
 そこに持ってきて、
「出版社も金を出すので、筆者側にも一部の出費を」
 という形の甘い罠を仕掛けるのだ。
 しかし、
「定価1,000円の本を、1,000部作るというのに、筆者に150万円をふっかける」
 という、経済学をまったく無視したやり方で言ってくるのだ。
 普通に考えれば、
「そんな詐欺にひっかかるバカがいるのか?」
 と思ってしかるべきだろうが、なぜか、これで本を出す人がいるということにビックリさせられる。
 自費出版社系の会社が注目されるようになった。2,3年で、何と、国内の年間出版さ数1位を、これらの出版社がダントツの勢いで奪取したという事実、
「一体、どういうことなのだ?」
 と、驚かされたが、
「要するに、それだけ金を持っている人が多い」
 ということなのだろうか?
 ただ、実際には、
「借金をしてでも、本を出すための費用をねん出した」
 ということなのだろうが、そうなると考えられるのは、
「本を出しさえすれば、将来元が取れるとでも思ったのか?」
 ということか、あるいは、
「本を出しさえすれば、プロにグッと近づける」
 とでも思ったのかということである。
 だったら、
「普通の自費出版でいいのではないか?」
 と思うのだが、実際に、あいつらの言い分の中にある、
作品名:一蓮托生の息子 作家名:森本晃次