一蓮托生の息子
実際に今では、この問題だけではなく、むしろ他のことで、ソーリの支持率は、どんどん下がっている。そのうちに自滅をするのだろうが、そんな伝染病を抱えての、このロクでもない、
「ソーリ三兄弟」
とでもいえばいいのか、政府にばかり文句を言っているが、実際には、
「自己防衛のできない平和ボケの連中と、自分たちの記事が売れればいいだけだと思い、必要以上に国民を煽るマスゴミ連中が一番の元凶だ」
ということである。
だからと言って、大多数の国民はしっかり感染対策をして、人込みに出かけないようにしているのだから、やはり煽られていることを考えれば、マスゴミの責任は、かなりのものだろう。
しかし、その表に出てきていること以外で、鹿児島博士が発見したことが、マスゴミに漏れなかったのは、よかっただろう。
もし、これが漏れていれば、かなりのパニックになっていただろうし、伝染病二つを相手にするには、抑えきれない混乱だったに違いない。
もちろん、あの政府は、どうせ右往左往するだけで、トンチンカンな政策しか打ち出さず、
「すべてが手おくれ」
という状態になっていたことだろう。
想像するだけで、恐ろしいものである。
そんな状態において、鹿児島博士は、極秘裏に、自分が発見したウイルスの研究を続けていた。
しかし、なかなか発見はできたが、有効な対策を打つことができない。
とりあえず、研究所にある資料を片っ端から目を通し、できるだけの研究をしようと考えていた。
でなければ、闇雲に突っ走るだけでは、何といっても、一人での研究ということは、相当な苦労がいることであった。
かといって、今の段階では他の研究員を巻き込むわけにはいかない。
有識者委員会から、今回のパンデミックの研究を要請されているからだった。
鹿児島博士は、幸いにも、小児科と眼科が担当ということで、パンデミックに関しては、ある程度、
「蚊帳の外」
だったのだ。
だから、政府からの要請もなく、独自の研究を続けることができた。きっと、他の研究員からは、不満もあったことだろう。しかし、
「いずれ、この研究は白日の下にさらされると、一躍有名になれるかも知れないな」
というほどの功績となることだろう。
鹿児島博士は、そんな功績をまわりに認めてもらうということはあまり考えていなかった。むしろ、功績などいらないと思っていた。
「なまじ、そんなものを求めていると、ロクなことはない」
と思っていた。
昔、皆で研究をしている時、結果、誰か一人の手柄として出し抜かれてしまったことがあって、他の研究員を信用しなくなったといっても過言ではない。
それを思えば、
「俺は、一人で孤独なのがいいんだ」
ということであり、
「自分が国民のために研究をしている」
などという意識は微塵もなかった。
あくまでも、
「自己満足のため」
ということであり、もし功績をたたえられるのであれば、それはそれで嫌なことではないというような、結構冷めた目で見ているのであった。
そんな博士は、それでも、やり始めると、寝る魔も惜しむタイプなので、どんな気持ちでやっているかということはどうでもいい。博士も国民も、博士の研究がうまくいくということが、すべてにおいていいことなのだから、
「ただの自己満足」
ということではないに違いない。
博士の研究は意外とうまくいっていて、資料も結構充実したものが揃っているので、着実に真相に近づいているという感じであった。
「意外と俺は恵まれた環境にいるのではないか?」
といまさらながらに感じたが、まさにその通りだったのだ。
大団円
鹿児島博士は、それらの発見をしばらく誰にも言わないでいた。それは、
「信憑性の証明に時間が掛かった」
ということで、何の根拠もないことで、世間を騒がせたくないという思いからだった。
そんな思いを、誰も知らないのをいいことに、というか、次第に研究に対して、冷めてきていることに気づいた博士は、世間に公表することを諦めようと考えたのだ。
世間への公表よりも、自己満足を取ったと言えばいいのか、博士は性格的に、冷めてくると、それ以上深入りすることを拒むのだった。
「熱しやすく冷めやすい」
という性格を、地で行っていると思っていたが、まさにそうだった。
短気ですぐに怒りやすいくせに、怒りを表すタイミングを失えば、一気に気持ちが萎えてきてしまい、たまに、自分の中に殻を作って、そこで固まってしまうということになりかねないのであった。
つまりは、鹿児島博士という人間の性格として、
「どこか、二重人格的なところがある」
と言われていたのだ。
ただ、本人は、二重人格というよりも、躁鬱症の気の方が強いと思っていた。
人によっては、
「二重人格と、躁鬱症というものを、似たようなものだ」
と思っている人が多いのだろうが、鹿児島博士は、そうは思っていなかった。
二重人格というのは、
「まったく違う人格が潜んでいるもの」
ということであり、躁鬱症は、
「一つの性格の中で、躁状態と、鬱状態が、交互に来る」
と考えていたのだ。
博士の信憑性としては、躁鬱症というものを考えた時に、
「この二つが、まるで昼と夜のように、交互に来るもので、決して、一緒になることはない」
と考えたのだとすれば、そこで思いつくものとして、
「バイオリズム」
というものであった。
バイオリズムには、
「生理、感情、知性」
というものが、周期的パターンによって変化するというものをグラフ化したものであるが、その場合は、ほとんどが、きれいな浮き沈みのカーブを描いている。
しかも、それぞれに、少しずつずれが生じていて、それらの変化が、心技体に結びついているという、一種の、
「仮説」
である。
証明されているわけではないが、鹿児島博士も、自分なりの研究を進めているといってもいいだろう。
しかし、この時の、未知のウイルスについての発見を発表するタイミングを逸してしまい、結局、発表できずにいたことが、ある意味で、トラウマになってしまったようで、いつのまにか、研究に対して興味を失ってしまい、科学者を引退するということになったのだ。
さすがに、研究者たちからは、
「どういうことなんですか?」
という、鹿児島博士の研究者としての心変わりがどういうことなのか、正直誰も分からないと言ったところだった。
鹿児島博士は、所属している大学に、退職願を出して、引退するということになったのだが、さすがに、
「もったいない」
という人が結構いて、いろいろな大学から、
「来てほしい」
という話もあったが、そおすべてを断り、しばらく、姿をくらませるというようなことがあった。
半年くらいして、戻ってきたのだが、その頃には、もう、鹿児島博士の話題も出ることはなく、
「なるほど、人のうわさも七十五日とは、よく言ったものだ」
ということであった。
博士が帰ってきた時には、息子が、研究者として、一目置かれるようになっていた。
昔の博士だったら、
「まだまだわしの目の黒いうちは、わしの前にたちはだかるなど、百年早いわ」