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平和な復讐

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 実際にそうなのかも知れないが、そこで燃え尽きるようでは、原稿を書き続けなければいけない作家になれるはずもない。
 ましてや、
「これまでは、自分の好きなように書いていたが、今度はプロとして、相手の望むものを書かなければいけないというジレンマに襲われる」
 ということである。
 しかも、締め切りにはシビアで、自分の意志にそぐわない作品を書けと言われてのジレンマに、耐えていけるかどうかということも大きな問題ではないだろうか?
 もっとも、小説というのは、俳句や短歌のように、
「文字数が決まっていたり、季語が必要だ」
 というものではない。
「ただ、面白い作品を書けばいいのだ」
 ということなのだが、
「そもそも、面白いって、どういうことなのか?」
 ということになるのだ。
 日本語というものは、おかしなもので、同じ言葉であっても、まったく違う意味になったり、正反対の意味で捉えられたりもするものだった。
 たとえば、ここで出てきた、
「おもしろい」
 というのも、
「興味がある」
 という意味のものであったり、
「楽しい。愉快な。あるいは、笑えるような」
 というような意味のものもある。
 また、まったく別の意味で、
「正常ではない」
 というような、
「おかしな」
 に近いイメージで使われるようなこともあるのだ。
 実に面白いといってもいいのではないだろうか?
 そういう意味で、
「面白い作品というのは、かなり幅が広い」
 といえるだろう、
「興味が湧くもの」
 という意味でもあれば、
「笑えるような楽しい作品」
 という意味もあるし、ホラーやオカルトであれば、
「より恐ろしさを感じさせる作品」
 ということもできる。
 だから、面白いという言葉だけでは解釈が難しい。
 特に、幅が広い要求を突き付けられるということは、ある意味、
「自由に何を書いてもいい」
 ということになるのだろうが、逆にそういうことであれば、
「言い訳は一切効かない」
 といってもいいだろう。
「こっちは、自由にやらせているのだから、締め切りが守れないとか、面白い作品を作れないというのは、プロとして失格だ」
 と言われているのと同じだ。
 それなら、SFとかであれば、
「宇宙もの」
 であったり、
「タイムマシン系」
 と言ったような、ジャンルの中でも、細分化された要望で会った方が、まだまとめやすい。
 新人賞などでは、結構幅が人いが、まだデビュー前なので、いくらでも、策を巡らせることができるというものだ。
 それを思えば、
「新人賞の傾向と対策は自分で考えなければいけないのだが、攻略という意味で、楽しみでもある」
 といえるだろう。
 しかし、それがプロということになると、考え方が変わってくる、
「新人賞を取ったことで、得たものも大きいが、それ以上に、失ったものも多かったといってもいいかも知れない」
 といえるのではないだろうか?
 新人賞を取ったことで、本当に気が抜ける人もいるだろう。
 中には、
「俺はこれが限界だ」
 と分かっている人もいるだろうが、
「先生」
 と言われ、
「読者が待っている」
 とまで言われると、
「俺は無理かも知れない」
 と思っているにも関わらず、
「やるしかないんだ」
 と、前しか見ることができなくなってしまうと、本当は、先のこちっが見えているわけではないのに、
「俺だったら、見えるんだ」
 と思い込んでしまうことで、ロクなことにならないと思うことだろう。
 そこで、大きなジレンマに襲われ、作家になることと、本を出したいということのどちらを目指していたのかすら分からなくなってしまうようで、ある意味、
「プレッシャーに押しつぶされる」
 という人が多いのではないだろうか?
 持ち込みの場合は、それ以前の問題で、原稿を持ち込んだとしても、受け取ってはくれるが、作家は編集者を出た時点で、原稿はゴミ箱行きだ。
 今だったら、プリントアウトした作品なので、原稿はパソコンに残っているだろうが、昔だったら、せめてコピーでもできればいいだろう。
 だから、ある意味、
「血税」
 という言葉を引用すれば、
「血原稿」
 といってもいいだろう。
 それを容赦なくゴミ箱行きなのだ、
「それなら、受け取らずに突っ返してくれる方がマシかも知れない」
 昔はそんな時代だったのだ。
 しかし、
「自費出版社系」
 の出版社は、原稿を送れば、キチンと内容を見てくれる。
 その証拠に、ちゃんと批評した内容を、郵送でお繰り返してくれるのだった。
 しかも、その内容が憎いくらいの演出なのだ。
 まず、最初に欠点から、書く。
 というのも、いいことばかりしか書いていなければ、完全にウソっぽいではないか。
 しかし、彼らは、最初に欠点を指摘してきて、
「欠点もあるが、長所は欠点を補って余りある」
 というような書き方をして、褒めちぎってくるのだ。
 最初に落としておいて、後で持ち上げるという効果を狙うのと、ウソっぽさを払拭するための技法という一石二鳥、いや、それ以上の効果をもたらすことで、作者は信じ込んでしまうのだ。
 しかも、その頃には、
「持ち込み原稿は、ゴミ箱に捨てられるだけ」
 ということは、
「公然の秘密」
 でもあるかのように、知れ渡っていた。
 そうなると、出版社系の会社に対しての信頼度は薄くなり、自費出版社系が、
「正義である」
 とでもいうかのように持てはやされるようになると、今度は、マスゴミが放ってはおかない。
「最近話題の、本にしませんかという触れ込みの出版社が注目を浴びております」
 などという宣伝で、また原稿がどんどんくる、
 さらに、評論家などが、あたかもとでもいうように、自費出版社系を擁護すると、誰もが信じることだろう。
 そもそも、マスコミの宣伝も、評論家に語らせるというやり方も、
「金を使うことで、宣伝してもらう」
 という、宣伝広告費の予算に組み込まれていることだろう。
 そんな自費出版会社が、ピークを迎えてから、あっという間に、倒産にまで至ることになったのは、さすがに詐欺というのが分かってきたからだろう。
「有名書店に、一定期間並ぶ」
 という触れ込みで、
「作者と、出版社の双方で金を出すという、共同出版」
 という形で本を出した時の条件に、
「有名書店に、一定期間並ぶ」
 というものであったのだ。
 高い金を出して出した本が実際に並んでいないことが分かると、弁護士に相談するだろう。すると、弁護士も、
「最近そういう話をよく聞く」
 となると、被害者が共同で訴訟を起こすようになる、
 そもそも、宣伝費と人件費がかさむことで、火の車の自転車操業を行うしかない会社が、命綱の、本を出したい人、つまり、会員のような人がいなくなれば、その時点で、もうダメなのはわかり切っていることだ。
 そんな出版社に疑問を抱いた人が、一度、編集者と話をした時、相手がキレたことがあったといっていたのだ。
 というのが、
「何度原稿を送っても、共同出版しか言ってこないので、自分は、出版社が全額出すという企画出版に掛けたいと思っている」
 というと、編集者は、
作品名:平和な復讐 作家名:森本晃次