平和な復讐
もちろん、いまさら小説家など目指す気にはらないが、あの時の情熱を思い出すことができれば、十分、一石二鳥といってもいいくらいの、
「気持ちの余裕」
というものを、持つことができるのではないか?
と感じるのだった。
小説を書くということを思い出させてくれた、隣人のクソガキに礼を言いたいくらいだが、あくまでも、冗談であり、
「クソガキはクソガキ」
という思いが消えることはなかったのだ。
小説を書くということを考えると、一番最初に感じるのは、
「いかにして、集中力を高めるか?」
ということであった。
小説を書くのに、一番の天敵は、
「気が散ることだ」
と思っている。
だから、小説を書いている時は、後ろを振り返ったり、ゆっくりとかんがえたりはしない。なぜなら、考えてしまいすぎることになりかねかいからであった。
余計なことを考えてしまうと、
「つり橋の真ん中に来た」
というような錯覚に陥ってしまうのだ。
前述の、
「戻るべきか、進むべきか?」
ということにも関係してくるのだろうが、ちょうど真ん中まで来た時に、ふと我に返った時を思い起こすのだ。
そこまでは、一心不乱に進んでくると、足元しか見えていないのは、それだけ、眼下が恐ろしいということになるのだ。
しかし、そんな眼下よりも、それまで意識していなかった正面が、
「さっきまでにくらべて、全然進んでいないではないか?」
と感じるのだ。
そうなると、再度気になるというのは、後ろを振り向いた時のイメージであった。
その時は、
「絶対に真ん中を意識させる光景ではないか?」
と思うので、しかもズバリその通りだと、一点の狂いもないように思うと、
「錯覚であっても、錯覚であるわけはない」
という思いに陥るのだった。
だが、実際には、半分どころか、まだ少ししか来ていないことになる。そこで考えるのが、またしても、
「進むべきは下がるべきか?」
ということである。
これが本当のトンネルであれば、
「後ずさりするしかない」
と考えることであろう。
だが、小説の場合は、後ろに戻るということは許されない。
「その時点で辞めてしまうか、先に進むしかない」
というのだ、
本当の作家というものが、どういうものなのか分からないが、刑部氏という作家であれば、
「ゆっくり書いていると、先に進まない」
と思うのだ。
逆に、意識もせずに一気に書いている方が、意識を変に持たない分、余裕という形の気のゆるみのようなものが出てくるのである。
そうなると、自分で抑制できなくなってしまったかのようで、
「小説を書くということは、目の前を一つ一つこなすというよりも、勢いで、自分の中にスピードのモラルを決めてやらなければならない」
ということであった。
もし、そこで動けなくなると、そのうちタイムアウトになって、橋が壊れた瞬間、足元が抜けてしまって、奈落の底に真っ逆さまにおっこちるということであった。
小説を書いている時、
「私は余計なことを考えないようにしている」
という人は、まさの同じ考えである。
小説を書き切れない人、つまり、完成させることができない人は、
「余計なことを考えて、まとめきれない」
という人であったり、
「考えることとして、気持ちに余裕あれば流れというリズムを作られなることではないだろうか?」
は、
「作家には向いていない」
といえるのではないだろうか。
最初は、そのあたりが結構難しかった。調整というわけではあく、逆に、
「猪突猛進」
という形になるからだった。
小説を書いていると、何も考えることなく、妄想の世界に入れる。逆に考えてしまうと、書けないというものだと思うと、イライラしている時などは、却っていいのではないかと思うようになっていた。
確かに、クソガキのうるささは、確かにたまらないものがあったが、耳栓をして、意識しないようにするために、
「小説の世界」
に入り込むことで、自分が毎日のように、楽しくできるということが分かってきた。
そのおかげで、自分も、
「もう少しで、椎名君のようになるところだった」
と感じたのだ。
それを一歩手前で思いとどまったのが、
「小説執筆」
という趣味であった。
小説を書く時というのは、かしこまってはできるものではなかった。
最初は、原稿用紙に書こうと思ったのだ。
「パソコンが早いし、楽だ」
というのも分かっていた。
しかし、そちらに流れてしまうと、
「せっかく、集中力が大切だ」
ということに気づいたのに、何かについていけないという気がしたのだ。
その何かが最初は分からなかったが、そのうちに分かるようになってきた。
というのも、分からないというのは、
「集中力というものが、パソコンの打つスピードについてこれないということであり、しかも、次に書こうと思ったことを頭の中にあるつもりでも、次の瞬間になると、忘れてしまっているのではないか?」
ということになるという危惧からであった。
小説を書くということは、
「集中力だけではないんだ」
ということにも気づいた。
もっとも、基本的なことは、集中力に結びついてくるというもので、集中力だけでは、どうにもならないものが、
「論理的な思考」
であった。
小説には必ず物語があり、
「起承転結」
と呼ばれるものがあるだろう。
それだけではなく、小説を書くことは、
「時系列の羅列である」
ともいえるだろう。
しかし、それを充実に守っていると、文章が続かなかったり、物語として、捻りがなかったりするというものだ。
話の途中で、回想シーンがあったりするのはそのせいで、回想シーンをどのように演出するかというのが、難しかったりする。
映像作品では、簡単そうに描いているが、想像力を掻き立てることが命の小説では、下手にややこしい設定にすると、読者を混乱させ、話が人によって、違う印象を持つというのは、ある意味、面白いことなのかも知れないが、それを、作為的にできるから、面白いのであって、
「結果的にそうなった」
などという作品であれば、
「愚作だ」
と言われるものになってしまうのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「時系列を捻じ曲げた小説も面白いのだが、一歩間違えると、まったく趣旨のない作品となってしまうだろう」
と言われかねない。
そう思うと、小説を書いていることで、自分が、何をしたいと思っているのか、頭の中で混乱してくると感じるのだった。
そんな、
「小説を、刑部が書いているということを知っているのは、数少なかった。最近の付き合いの中で知っているのは、椎名君だけだっただろう。
大学を卒業してから、しばらくは小説執筆から離れていたことで、きっと、サークルの仲間も、
「もう執筆から離れてしまったのだろう」
と思っていることだろう。
なぜなら、大学時代の知り合いとは、すでに連絡を絶っていたからだ。それは、小説うんぬんということではなく、ただ単に、
「社会人になってまで、大学時代の仲間と連絡を取ることが億劫になった」
というだけのことだった。