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平和な復讐

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「ギャンブルは似合わない」
 と思っていたが、どうやら、悪友に教えられたか、一緒にいって、後ろで見ていたか何かで、その面白そうな遊びを、
「自分もやってみよう」
 と思ったようだ。
 本当なら、パチンコ、パチスロというのも、いろいろなデータを研究し、
「負けないような遊び方」
 というのをするべきなのだろうが、彼は、そんなことは考えなかった。
「目の前に面白いおもちゃがある」
 という感じで、単純に興味を持ったものに、飛びついただけだった。
 だが、不思議なことに、彼が負けたという話は聞かない。
「自分なりに研究しているのかい?」
 と聞くと、
「いいや、そんなことはしていない。座った台が、結構当たったりするんですよ」
 というではないか。
 たまたま座った台が、そんなに簡単に出るということであれば、パチンコ屋はたまったものではない。ただ、
「出る人がいれば、出ない人もいる。逆に、出ない人がいれば出る人もいる」
 ということであり、相対的に聞こえるが、実は違うものであって、あくまでも、
「パチンコというのは、圧倒的に出ない人が多くないと成り立たないものだ」
 といえるのではないだろうか?
 なぜなら、
「数分で1万円がなくなるようであれば、たいていはそこでやめるだろう。しかし、パチンコというのは、どんなに出る台であっても、出ない時間がしばらく続くというのは、普通にあることだ。一日を終わって収支が、プラスになる台もある、圧倒的に負ける台が多い中で、そういう台もなければ、当然、客が来ないということで、パチンコ屋としての商売が成り立たないということになる」
 というものである。
 パチンコには、
「大当たり確率」
 というものが記されている。
 それは、あくまでも、
「たくさんの時間を使って統計を取った結果の確率である。もちろん、最初に設計者が、企画要望のあった、当選確率に会うように、設計し、製作するのだが、それにあった演出や、大当たりのパターンを考えるのだから、ある意味、設計者という仕事も大変だというものだ」
 何といっても、あれだけの機種を頻繁に世に送り出すのだから、当然といえば、当然、ギャンブル性よりも、ゲーム感覚も重要視しないと、客が寄り付かないということもあるだろう。
 ここで出てきた
「大当たり確率」
 というものであるが、これは、
「完全確率性」
 というものを取っている。
 一回転で外れたからといって、次から徐々に確率が上がっていくというものではないのだ。
 たとえば、大当たり確率が、300分の1だったとしようか。大当たり後であれば、当然大当たり確率は、300分の1であるが、次の一回転であたりを引けないと、次の確率が、299分の1になるというわけではない。
 そういうことになってしまうと、
「300回転のうちに、必ず当たる」
 ということになるだろう。
 そうなると、パチンコ台の上の表示に、
「大当たりから、現在何回転」
 という表示が出ているので、300に近ければ近い台を皆狙うことになる。
 さらに、そうなると、
「300まで回せば必ず当たる」
 ということで、意地でもそこまで回し、最悪、300回点目で当たっても、それがどれだけ出るかということは誰にも分からない。
 ひょっとすると、連荘に連荘が続いて、かなりの儲けになるかも知れないし、単発で終わって、また次の300回転までに当たるというものを目指して、つぎ込まなければいけない。
 それがどういうことかというと、
「辞め時を見失う」
 ということである。
 辞め時というのは、ゲーム、いや、ゲーム以外でも、案外と重要で、それを逸したことで、大炎上ということも、ゲーム以外でも、えてしてあるものだった。
 例えば、戦争などというものも、そういうもので、
「相手は大国で、とてもじゃないが、戦争を起こしても、勝ち目はない。しかし、戦争をしないと、今のままでは、自分の国は二進も三進も行かなくなり、黙って滅んでいくのを待つしかない」
 ということになれば、
「戦争やむなし」
 ということになる。
 そこで、かつての、大日本帝国のように、
「世界の大国を相手に戦争を仕掛ける場合、綿密な作戦を組んで、個々の戦に勝利することを前提とし、相手の出鼻をくじくことで、相手に戦争継続の意思を失わせることを目的とした、和平ありきという方法で収拾をつけるという方法しかない」
 というものが、
「辞め時の問題」
 ということであった。
 日露戦争の場合は、そのやり方が功を奏し、それでも、被害は、想定以上であっただろうが、何とか、アメリカに和平の仲介をお願いできるところで、しかも、
「勝利」
 という形で追われた。
 日露戦争の場合は、実際の戦闘でもそうだったのだが、功を奏したのは、
「外交」
 だったのだ。
「栄光ある孤立」
 と言われ、それまで、他国と同盟など結んだことのないイギリスと、
「ロシアの不凍港を狙った侵略行為への脅威」
 という理解関係の一致と、日本の外務省、外交官の努力とで、何とか日英同盟を結ぶことができた。
 日英同盟が功を奏して、ロシアのバルチック艦隊の動向であったり、航海中の、食料や、燃料の補給を、ことごとく拒否できたのは、イギリス領が多かったおかげでもあった。
 そのため、長い航海に疲弊した形で日本に来たバルチック艦隊と、訓練に訓練を重ねて。満を持していた、連合艦隊とでは、
「やる前から、勝敗は決していた」
 といっても過言ではないだろう。
 それが、日露戦争での勝利だった。
 だが、薄氷を踏む勝利であり、最終的に、まったく余力のないどころか、傷だらけの勝利だったのだ。
 だから、それを見越して、
「賠償金は得られない」
 ということになり、戒厳令が出るほどの騒動が、
「日比谷公会堂焼き討ち事件」
 という形になったのだが、それでも、
「勝利は勝利」
 だったのだ。
 しかし、それから、40年後の、
「大東亜戦争」
 では、そうはいかなかった。
 何と言っても、石油や鉄の輸入を、完全に止められた状態で、まるで、
「血を流している人間の首を、さらに絞めつけようとでもする行為」
 に対して、列強のいうことを聞いて、
「明治維新の状態」
 つまり、歴史を、約100年さかのぼらせるということで、それこそ、多くの血を流して勝ち取った、
「安全保障」
 というラインを放棄することになるのだ。
 それは、日本という国に、
「死ね」
 といっているのと同じことで、
「どうせ死ぬのであれば、戦って死ぬ」
 と考えるのが、当たり前ではないだろうか。
 今の人たちは、平気で、
「日本が、アメリカを中心とした、欧米列強に戦いを挑むなど、無謀だ」
 といっている。
 実際に学校でも、そう教育しているのだろうが、そんなものは、
「占領軍が、日本人の意識改革のために、刷り込ませた妄想」
 に過ぎないのだ。
 そもそも、日本は、
「外交によって、事態を収拾しようと努力してきた」
 といってもいい。
 しかし、問題の一つに、
「大日本帝国憲法」
 というものが、立ちはだかった。
 大日本帝国という国は、いわゆる、
「立憲君主制」
 の国である。
作品名:平和な復讐 作家名:森本晃次