辻褄合わせ
そのあと、大津に遷都して、中大兄皇子が天智天皇として即位し、さらに本当は、弟に譲るはずの天皇の位を、息子に譲ると言った時点で、
「壬申の乱」
が、勃発することになったのだ。
結局は、弟の大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位することになるのだ。
そんな歴史を考えていると、高校時代には、
「歴史研究部」
というところに入部して、歴史を勉強するつもりだった。
しかし、自分では、
「どの時代に造詣が深いか」
ということが正直よく分かっていなかった。
実際にどの時代も、
「帯に短し、たすきに長し」
という感じで、勉強をするにも、どれも、中途半端で、要するに、
「自分がどこまで分かっているのかが分かっていない」
ということであった。
だからこそ、一生懸命に勉強しているつもりでも、
「これくらいのことは分かっている」
という思い込みも入ってか、そのあたりを、
「すべて分かっていると勘違いして、他の時代との裂け目が分からなくなり、結果、話が繋がらなくて、うまくいかないのだった」
つまりは、何も分かっていないのと同じで、他の人と話をしても、まったく明後日の方向を自分だけが向いているので、
「本当にこの人分かっているのだろうか?」
と思われるのだった。
実際に、自分でも、
「何かが違う」
と思うのだが、
「いまさら違うのではないか?」
ということを言っても分かるはずもないということであった。
だが、歴史というものを好きになったきっかけとしても、
「時代時代のターニングポイントを見つける」
という感覚だけは残っていたので、少々間違ったところに向かっていたとしても、そこは、大体のところで軌道修正ができていたのだ。
歴史というものが、いかなるものであるかということを、同じ部員でも分かっていない人がいる。
「歴史というものは、人間で見るか、事件で見るかによって変わってくる」
というターニングポイントを必要とする考え方の自分たちと違って、
「歴史というのは、原因があって結果があるという、時系列を重視するものなのではないか?」
という人である。
マサツネは、あくまでも前者を推奨する人間だったら、後者のような考え方は、明らかに違うと思うのだが、大学に入ってから思い返してみると、
「その考えも間違いではない」
と感じた。
間違ってはいないのだが、それでも、自分が納得できるものではない。そこだけは考え方がブレることはなかった。
そんな歴史の勉強をしていると、大学時代には、自分なりに本を読んだりして勉強をした。ただ、その勉強であっても、その内容は、あくまでも、
「ターニングポイントに絞った勉強」
であり、大学時代になると、余計に、凝り固まった自分が出来上がった気がしていた。
しかし、時系列を主張する連中に対して、
「分かっていない」
とは思わなくなった。
そのおかげで、自分が勉強をしている内容が、
「時系列派から見て、どのように見えるというのか?」
ということが、
「自分の考えをいかに証明してくれるというのか?」
ということを考えるに十分だと思うのだった。
マサツネは、歴史の勉強をする時も、
「他の勉強をしている時の気持ちになればいいのか?」
ということを考えた方がいいのかを考えるのだった。
歴史の勉強にいおいて、
「何が正しいということはない」
と言えるのではないか?
なぜなら、
「誰も見た人間がいない」
ということであり、
「いかに過去の発掘資料から推測して、真実に近づくか?」
ということになるのであろう。
実際に、歴史の資料の中で、今までは、
「神話」
とでもいうように、当然のことと信じられていたものが、実は違っているなど、山ほどあるというものだ。
「いいくにつくろう鎌倉幕府」
なども違うというし、教科書などに載っている、源頼朝の肖像画が、実は別人のものであり、
「そう伝わっている」
ということで、
「肖像画:源頼朝伝」
と言われているということである。
さらに、歴史の登場人物への評価もそうである。自分たちが習った頃は、
「蘇我入鹿、明智光秀、田沼意次」
などは、
「極悪人」
とでもいうような評価だったが、今は研究が進むにつれて、
「実は、こっちが善ではないか?」
とも言われるようになっている。
善というのは、大げさかも知れないが、
「汚名返上の余地はある」
といってもいいのではないだろうか?
「蘇我入鹿などは、本当は、朝鮮半島との外交を、平等外交でうまくいっていた、そして、仏教を導入することで、国教を侵害したと言われていることも、実際には、聖徳太子の理想を忠実に守った」
などといわれて、蘇我氏を滅ぼしたことで、朝鮮半島の新羅に加勢をしたため、朝鮮半島で、日本軍は大敗し、
「結果、九州にて、朝鮮からの侵入を防ぐための防衛をしなければいけなくなったし、そのために、遷都も激しくなった」
と言われているのだ。
「蘇我氏が滅亡したことで、歴史が百年後退した」7
と言われたほどである。
しかし、これは、
「平家滅亡」
においても言えるのではないだろうか?
というのも、平家というのは、平清盛の時代よりも昔から、海上において、権威を誇っていた。
だから、海上貿易も盛んで、宋との貿易で、利益も上げてきた。それが清盛の時代になって、福原の港を整備することで、利益も膨れ上がり、その財力を使って、朝廷や帝に取り入ったのだろう。
それで、朝廷内において、平家の力が増大し、
「奢れる平家」
となってしまったことで、貴族や、武士からも、疎まれたり、妬まれたりしたのだった。
しかし、清盛が権勢をふるっている時代においては、その権威は、皇族と結びつくことで、さらなる権勢が備わってきて、
「平家にあらずんば、人にあらず」
などという言葉が出てくることになるのだ。
清盛は、自制していたということであるが、それも分かったものでもない。
朝廷との結びつきがはげしいことから、平家は、結果、清盛の死後、急激に勢いを失っていくのだった。
結果平家は、源氏に滅ぼされる。その後鎌倉幕府が成立することになるのだが、鎌倉幕府というのは、その後の、
「封建制度」
の基礎を作るということになる
封建制度というのは、
「御恩と奉公」
と言われるように、基本は、土地である。
武士の命よりも大切なものは、
「土地」
である。
土地がなければ、コメを作ることができず、領民を養っていくことができない。貴族のように、寺院や領主から上がってくるコメを年貢としてもらい、生活しているのとはわけが違う、一方通行であった。
しかし、封建制度は、
「双方向からの助け合いのようなもの」
が、信頼関係として、結びついてくるのだった。
というのも、
「土地を保証してもらえるっと、そこから年貢も上げることができ、いざ、主君が戦争などというと、奉公として、兵を出す。あるいは、馳せ参じる」
ということになるのだ。
それはそれの間違った考えではないのだが、あくまでも、戦が起これば、
「論功行賞」