小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

飛び降りの心境

INDEX|8ページ/21ページ|

次のページ前のページ
 

「100点でなければ、0点でしかない。オールオアナッシングという考え方になるのである」
 ということだった。
 これは、権利と義務のような前述の話に結びついてくるのであり、
「平坦な道を一歩踏み出すと、そこには、断崖絶壁が迫っていた」
 というようなもので、油断をすれば、あっという間に、奈落の底に転落しているということになるだろう。
 そんな時、父親がよく口にしていた言葉が、
「社会人」
 という言葉であったり、
「一般常識」
 という言葉だった。
 その言葉を聞くと、頭に浮かんでくるのは、
「何でもかんでもそつなくこなすような平均的な人間になればいいんだ」
 という意味のことであった。
「別に目立って、トップになることはないが、下の方の底辺にいてはいけない」
 というものであった。
 要するに、
「目立たず、静かな生活を営んでいれば、まわりから後ろ指を指されることもなく、うまく世間を渡っていける」
 ということが言いたいのだろう。
 確かに、父親くらいの年齢になれば、それも仕方のないことなのかも知れないが、そんなことを、小学生の、
「前途有望で、これから、どんな可能性だって秘めている」
 と言われる世代に諭すことではないだろう。
 子供心にそう察したのか、
「尊敬しなければいけない立場の父親」
 というのは、物心ついたことから、感じさせられ、それに対して、疑問も違和感もなかったのに、その時初めて、違和感として湧き上がってきたような気がするのだ。
「何に、最初に違和感を感じたのだろう?」
 と思ったが、考えれば考えるほど、
「社会人」
 という言葉と、
「一般常識」
 という言葉であった。
 一般常識というものが、いかなるものかということであるが、どうも父親の話を聴いていると、
「一般常識を分かっているのが、社会人だ」
 ということであった。
 子供に対して。
「一般常識という言葉を使う以上、今、身につけなければいけないということを言っているわけだから、社会人が身につけているという発想とであれば、これは明らかに矛盾しているということではないか?」
 と感じるのだった。
 だが、正体的に、小学生から中学生、高校生、大学生と、ステップアップしていき、下を見ることはなかったが、社会人になると、そこは、学生時代までに上り詰めたものとは違うものになっていた。
「社会人一年生は、紛れもない一年生なのだ」
 ということである。
 それまでの学生気分をリセットして、新たに社会人になったのだ。
 その時に父親の、一般常識という言葉を思い出した。
 この会社は、そんなに大きな会社でもなかったので、入社式のような厳かなものはなく、入社してきて、社長の訓示のようなものは、社長室で受けたが、その時、
「まるで父親か?」
 と思うほどの、
「社会人として」
 あるいは、
「一般常識を身につけて」
 という言葉が飛び交ったことを、あさみは、違和感しかなく感じていたのだった。
 訓示としては短いもので、15分くらいだっただろうが、普段から訓示というものを聞き慣れていないせいか、かなり長く感じられた。
 それでも、たったの15分、その中で、
「社会人」
「一般常識」
 という言葉が何度出てきたというのだ。
 それを思うと、時間が果てしなく長く感じられたのも分からなくもない。一生懸命に聞いていたつもりだったが、この二つの言葉が出てきた瞬間に、父親の言葉を思い出し、完全に上の空になっていた。
 思い出した父親の方が威厳があったように思える。
「社長の方が、今目の前にいて、威厳があるはずなのに」
 と思うと、急に社長というのも、
「父親よりも威厳を感じない」
 と思わされたのだった。
 そんな社会人になってから、最初の研修期間は、社長から最初にあの二つの言葉を言われていたので、
「教育係の人に言われたとしても、右から左に聞き流す程度のことだ」
 と思えてならなかったのだ。
 実際に、集団研修が終わって、いよいよ部署での実地が始まると、先輩社員も、同じように例の二つの言葉を連発していた。
「まるで言葉の大安売りだ」
 と思うようになると、今度は、
「何を言われても、どうでもいいわ」
 というような気持ちになってきた。
 感覚がマヒしてきたと言えばいいのか、それだけ身についているものであればいいのだが、完全に逃げているというか、はじき返している感覚しかなかったのだ。
 だが、実際には、少量であるが、自分の中に吸収しているようだった。それが、自分の意志によるものなのか、それとも、言葉自体に魔力を持っていて、自分で変異して身体に入ってきたようなものではないだろうか?
 それを思うと、
「それこそ、ウイルスような伝染病ではないのか?」
 と思えてきた。
 気が付けば、30歳になっていて、その頃になると、自分から、
「社会人」
「一般常識」
 という言葉を口にするようになっていて、
「一番嫌いな言葉のはずなのに」
 と思うのだが、次の瞬間、
「まあいいか?」
 と、これが諦めなのか、それともマヒした感覚の表れなのか、正直分からなくなっていた。
 それでも、小学生の頃の父親のことを思い出すようになった。
 社会人になって、大学時代の意識が忘却の彼方に消えていった理由は、
「大学時代の意識が残ってしまうと、小学生の頃の意識を、まるで昨日のことのようだという思いで思い出さないからではないか?」
 と考えるのであった。
 30歳になってくると、人込みがまたしても、嫌になってきた。それでも、通勤ラッシュのような、
「避けて通ることのできないもの」
 ということに関しては、割り切っているつもりなのだが、果たして割り切れているかどうか、誰に分かるというのだろう。
 今でも大嫌いで、ヘドが出るほどにしか感じない父親のことをこんなに思い出すということをジレンマに感じていれば、満員電車のように、避けて通ることのできないものは、
「あまり余計なことを考えない」
 ということで乗り切っていけるのだ。
 確かに余計なことを考えないというのは、
「自分の都合のいいことを、無意識の中で考えているから、何も考えていないかのように見えるのかも知れない」
 と、考えるのだった。
「感覚がマヒしている」
 という言葉は、このあたりを意識して使う言葉のように思えてきた。
 だから、最近ではマンネリ化している中で、少しでも余裕が出てくると、またしても、
「何か趣味を持ちたい」
 と考えるのだ。
 というのは、
「前に趣味を持ちたい」
 と思っていたあの時から、結果として、
「趣味を持つことができなかった」
 ということで、今回また思ったということは、
「今では定期的に考えるようになった」
 ということになるのであろう。

                 趣味

 趣味を始めたいと思うと、意外と見つかるものなのかも知れない。前にも一度軽い気持ちで、
「何かできる趣味でもあれば」
 とネットで、趣味おサークルなどを、暇つぶし的に見ていたが、実際に探すとなると、どれも気に入らない。
「どれも同じように見えて、五十歩百歩なんだよね」
 と思うのだった。
作品名:飛び降りの心境 作家名:森本晃次