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飛び降りの心境

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 とでもいうような形で、四面楚歌に近いほどに追い詰められていると思っている人なのかも知れない。
 しかし、ここ日本では、そこまでの発想があるわけでもない。
 ある意味、諸外国でもそうなのかも知れない。そういう意味では、一部の新興宗教のような、
「カルト団体」
 のような考え方なのかも知れないといえるだろう。
「中間がないということは、ある意味、遊びの部分がない」
 ということで、中立がないことから、その二つが普通にけん制し合っている場合はいいのだが、
「衝突すると、大きな問題になる」
 と考える。
 しかし、実際には、そんな大きな問題となることはない。
 確かに、その二つは相対するものであり、まるで、
「火に油」
 という感覚なのかも知れないが、実際に、正反対という意味での、
「表裏の関係だ」
 と言えるだろうか。
 それぞれに、補う部分があり、どちらかに寄ったとしても、そこで競い合うことはあったとしても、戦争のような、大問題になるわけではない。ある意味、
「切磋琢磨」
 という状況に近いのかも知れない。
 だから、
「権利と義務」
 は、
「水と油」
 というものではなく、
「相関関係にあって、決して交わるものではないが、どちらが表に出てきていても、裏が表を妨げるということはない」
 ということになるであろう。
「相乗効果」
 という言葉があるが、権利と義務というものが交互に表に出てくることで、その扱い方が、理にかなっているのだとすれば、それこそ、相乗効果の表れなのかも知れない。
 中には、教育のように、その立場が変わることで、
「権利にも義務にもなるものがある」
 と言えるのではないか。
 そういえば、あさみの会社では、野球ファンが多いという。
 あさみもあまり野球を見るわけではないが、
「巨人と阪神」
 くらいは知っている。
「今は、民放であまり野球をしなくなったし、地方に球団が増えたことで、いろいろなファンが多くなったが、昔は、結構な数の巨人ファンと、阪神ファンがほとんどだった時代があったんだ」
 と、上司が言っていたことがあった。
 その時言っていた言葉として、
「巨人ファンも阪神ファンも、数は多いけど、それ以外の人は、皆アンチ巨人だったり、アンチ阪神だったりするんだよ」
 というではないか?
 それだけに、完全に、
「敵か味方か?」
 に別れてしまい、下手をすると、
「アンチもファンの一種ではないか?」
 と言われるゆえんだったりする。
 しかし、アンチは完全に、
「ファンではない」
 と言い張るであろう。
 しかし、やっていることはファンでしかなく、特に野球を知らない人から見れば、
「どっちでもいいんじゃないか?」
 と言われるゆえんだったりする。
 そんな野球を知らない人が、権利と義務ということを考えた時、
「どちらも、ある意味その世界での両巨頭だ」
 という意味で、まるで、
「巨人と阪神のファンのようではないか?」
 と考えた時、
「権利というものを中心に考えた時、権利以外のものは、すべて義務になる」
 と思うのではないか、逆に、
「義務というものを中心に考えた時、権利以外のものは、すべて権利になる」
 と言えるのではないかということだ。
 もちろん、
「究極の選択」
 のようなものではあるが、果たして、そうなのだろうか?
 確かに、相対するものであることから、
「権利以外のものをすべて義務と言われてしまうと、権利でも義務でもないと思っている人がいれば、権利というものに対して、敵対する考えを持つかも知れない」
 つまり、余計なことを言われたくないという考えがあるからであろう。
 だが、
「権利と義務」
 という考えは、
「巨人と阪神」
 という考えとは違っている。
 権利と義務では、明らかに感じる人が、どちらがいいかということは、ほぼほぼ決まっているからだ。
 権利に対しての言葉としては、
「自由」
 というものがあり、義務という言葉に対しては、
「束縛」
 という言葉が当て嵌まる。
 少なくとも、
「自由は好きだという人がいても、束縛がいいという人は、それこそ、SMの世界のMさんしかいないだろう」
 というジョークになってしまう。
 ただ、自由というものに対して、裏表があることに気づいていない人が、自由や権利の行使を強く訴えるのであろう。
 自由というのは、強者、弱者が存在すれば、そこに格差が出るのは当たり前のことなのだ。
 公平性を考えるなら、
「どちらかにハンデを与える」
 という意味のことがあってもいいのではないだろうか?
 しかし、それをすると、そもそも強者と弱者が出来上がったのも、
「強者が努力をして、弱者が努力さえしていれば、同じところに行けた」
 というのが分かっていれば、果たして、ハンデを与えてもいいといえるのだろうか?
 絶対の公平性を保とうとするならば、
「対戦相手のそれぞれを調べ上げ、いかに公平にするにはどうすればいいか?」
 ということを、突き詰めなければいけない。
 それが、お互いに果てしないことになるのであれば、どこで妥協をするかということにしかならないが、妥協など、そもそもできるのだろうか?
「ハンデを与える」
 ということは、一見、公平性を保たせるという意味で正当性を感じさせるが、実は、これが曲者で、不公平なのかも知れない。
 あさみは、そんなことを考えながら歩いていたのだが、その道はいつもの帰り道であり、もう何年も通ってきたところなので、考えごとなどをしていると、後から思い出した時、
「あれ? 私はいつもの道を歩いて帰ったんだっけ?」
 と思うに違いないくらいに、マンネリ化してしまって、感覚がマヒしているといってもいいだろう。
 いつものように、電車を降りてから、人に飲まれるように改札を抜ける。
 数年前、つまり、通勤路の感覚が、毎日少しずつでも、そのわずかな変化に気づいていた頃であれば、人込みの中を一緒になって抜けるなどということはなかった。
「こんなに人がいるのに、煩わしい」
 と感じていたはずなのに、今は、意識せずに通り抜けるのだ。
 以前は、考えごとをしている時は、意識せずに、人込みの中に入ってしまって、気付いた時には遅く、
「しまった、紛れ込んでしまった」
 と思うことだろう。
 しかし、意識がある時は、
「人込みなんかに入ると、何を移されるか分からない」
 と感じたのだ。
 そもそも、あさみは、子供の頃からよく風邪をひいていて、医者からも、
「ウイルスには弱いようなので、あまり人込みには入らないようにしないといけないですよ」
 と言われていた。
 小学生、中学生くらいの頃はその言いつけをしっかりと守っていた。だが、高校生くらいになると、言いつけを守らなくなる。
 伝染病に罹らなくなったからで、
「私は身体が強くなったのかしら?」
 と思うようになった。
 それとも、
「体質が大人になるにつれて、病気に罹りにくくなってきたのかしら?」
 と思うようになったのだった。
 だから、高校生になると、部活も、運動部でするようになり、医者も、
「運動をするのはいいことなので、いいと思います」
 と賛成してくれた。
作品名:飛び降りの心境 作家名:森本晃次