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飛び降りの心境

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 とあるが、この場合の教育というのは、
「教育を受けさせる義務」
 である。
 つまり、国民の権利として、
「教育を受けるのは、権利である」
 ということである。
 ただ、今の世の中は、政府の教育問題に対する考えが、右往左往していることで、いろいろな意味での、
「格差」
 を生んだりする、
 今から50年くらい前というと、
「世界に通用する教育」
 ということで、大学が整備され、次第に受験戦争などと言われるものが出てくる。
 小学生から、中学受験、つまり、
「お受験」
 と呼ばれるものが出てきて、そのうちに、高校生になった頃には、勉強についてこれない子供が増えてきた。
 それが、いわゆる、
「校内暴力」
 であったり、教師に対しての、
「お礼参り」
 と呼ばれる暴力になって、社会問題化したのだ。
 あの頃の教師というと、今の学校と違い、
「教師が生徒を平手打ち」
 などというのは当たり前のことで、行き過ぎる体罰なども、平気で行われていた。
 特に、運動部であれば、よくあることで、
「先輩が、後輩を聯来責任で、殴る」
 というような、いわゆる、
「軍隊形式」
 が当たり前の時代だったのだ。
 それが、次第に非行というものに走り、退学されたりした生徒が、卒業式などを狙い、学校を襲ったり、学校内でも、暴力が増えて、
「ほとんどの窓ガラスが割られている」
 という学校も、珍しくはなかったのだ。
 そんな問題から、次第に、
「ゆとり教育」
 というのが叫ばれるようになり、大人と同じように、
「週休二日制」
 というものが生まれてきた。
 しかし、そのわりに、学校内でお、生徒同士のトラブルから、
「苛め問題」
 に発展し、それが、
「不登校」
 というものになってきて、家では、
「引きこもり」
 と呼ばれ、
「暗い部屋でゲームばかりをしている」
 ということになるのだ。
 だが、もっと昔でも、確か、不登校と同じような言葉で、
「登校拒否」
 というのがあったと聞いたことがあった。
「何が違うんだろう?」
 と聞いたことがあったが、正確に答えることができる人など、そう簡単にはいなかったのだ。
 ただ、それが、
「ゆとり教育」
 と、関係があるのかどうかというと関係性はないように思う。
 実際に、苛めの問題は、ゆとり教育よりも、もっと前からあったような気がするからだった。
 そんなゆとり教育も、どれくらいだろうか?
「学力の低下が著しい」
 ということで、
「昔のカリキュラムに戻す」
 というような話になってきている。
 問題は、
「教師の質」
 だったのだ。
 そもそも、今の先生は、ずっとゆとり教育で毎年やってきた人ではないか?
 しかも、新しく教師になる人たちは、その、
「ゆとり教育」
 で育ってきたのだ。
 そもそも、
「詰め込み教育」
 というものが分からない。
 そこへもってきて、最近では、
「今までの〇×形式や、三択性のような、マークシートではなく、考えさせる論文形式の問題なども取り入れられるようになった」
 つまり、
「先生が、忙しくなってきた」
 ということである。
 企業が、労働基準法の定めてられている労働条件を守っていないような会社を、
「ブラック企業」
 というが、実際に、今の教師という職業は、
「そのブラック企業の代表的な職種だ」
 と言われている。
「毎日、平均10時間以上の勤務が当たり前だ」
 というではないか、
 警察と同じで、もし、生徒が問題を起こしたりすれば、夜中であっても、警察に行かなければならなかったりする。その後の対応も、警察から引き継がれると、学校で問題となるだろうから、その対応に追われることになる。
 もちろん、普段の教師としての仕事も行いながらのことである。
 しかも、
「問題を起こす生徒が複数いれば、どうなるか?」
 それを考えれば、とても一人では賄いきれないのだろうが、だからと言って、他の先生や学校が助けてくれるわけでもない。
 ストレスが溜まりまくって、その結果、
「病院通いとなり、精神疾患となって、学校を辞めなければいけなくなる」
 という教師が、果たしてどれだけいることだろう。
 もちろん、教師に限ったことではあないだろうが、どれだけたくさんの人が精神疾患になったかと考えれば、生徒だけではなく、教師も社会問題だということだ。
 当然、そんなブラックな話が世間でいわれるようになると、
「教師になりたい」
 などという人もいない。
 そうなると、人手不足ということになり、
「残っている人員で、同じ数の生徒の面倒を見なければいけなくなる」
 というものである。
 昔だったら、子供のなりたい職業のベストテンくらいには、教師というものが普通に入っていたのだろうが、今では、なりたくない職業のダントツトップなのかも知れない。
 いつ頃からそんな風になってしまったのかというと、
「やはり、苛めという問題が出てきてからではないだろうか?」
 という意見もあれば、
「いやいや、校内暴力の時点で、もう教師になりてなんていない」
 ともいえるかも知れない。
 とにかく、
「相手がある仕事というものほど、難しいものはない」
 ということである。
 それが、営業の仕事で、対外的なものであっても、事務員などのように、内勤という仕事であっても、人に関わらない仕事というのは、ほぼほぼないといってもいいだろう。
 そんな社会において、
「教育というのは、受けるのが権利だ」
 ということを分かっている人がどれだけいるだろう。
 そういう意味で、権利という言葉をいかに理解すればいいかということが問題になっているに違いない。
「権利と呼ばれるものには、絶えず、義務がその裏側には存在している」
 という考え方がある。
 それは、今の民主主義の前の、中世の考え方としてあった、
「封建制度」
 に繋がってくるのではないだろうか?
 封建制度というのは、
「御恩と奉公」
 と呼ばれるものであり、
 領主であったり、君主は、領民に対して、土地を保証し、その土地を脅かすものがあれば、矢面になって戦うのだが、その時、領民は、君主と自分たちの土地を守るために、兵を出して、戦闘員として奉公するというものである。
 この場合の、
「御恩」
 というものが、
「権利」
 であり、
「奉公」
 というものが、
「義務だ」
 ということになるだろう。
 つまりは、権利を行使しようとすると、義務が伴いのであり、義務を果たすと、権利を保障されたり、論功行賞によって、土地を与えられるという、
「褒美」
 というものに、ありつけるということになるのである。
 そんな権利と義務を最近は、いろいろな考え方をする人が出てきた。
「権利が、義務を凌駕する」
 という考え方。
 逆に、
「義務が権利を凌駕する」
 という考え方である。
 しかし、そのどちらにも言えることとして、その中間というのはないのだ。その考え方として、つまりは、
「権利に重点を置く人は、権利以外をすべて義務だ」
 と考える人で、
「義務に重点を置く人は、義務以外をすべて権利だ」
 と考えている。
 つまりは、
「自分以外はすべて敵だ」
作品名:飛び降りの心境 作家名:森本晃次